最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田。彼の本質に迫る重厚なノンフィクションがSYNCHRONOUS(シンクロナス)でスタート!

 プロレスライターの小佐野景浩氏が、自身の著書『永遠の最強王者ジャンボ鶴田』(ワニブックス)に大幅加筆をしてお届けする、プロレスファン必見のシリーズ連載です!

 また「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」完全版のスタートに先駆け、書籍版「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」第1章、第2章、さらに著者・小佐野景浩が「完全版」スタートを記念して書き下ろした「藤波辰爾にとってのジャンボ鶴田」(※7月5日配信)を無料で配信。こちらもお楽しみください。

 今回は大学生・ジャンボ鶴田を追う。

 バスケットボール部で活躍していた鶴田青年だが、オリンピック出場のためにレスリング部入部を決意。

 しかし希望していた中央大学レスリング部から拒絶されてしまう。

 なぜ鶴田は拒絶されたのか。そして拒絶後、レスリングを諦められない鶴田が訪れた場所とは?

 ジャンボ鶴田、最強の礎を描く。

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五輪出場のため個人競技へ

 1969年4月、鶴田友美は4年後のミュンヘン五輪を目指してバスケットボールの名門・中央大学法学部政治学科に入学した。体育大学に進むことも考えたが、オリンピック後の進路を考えた上での判断だった。

 体育大学を卒業した場合には体育教師になるのが一般的だが、それよりも職業の選択肢が広がると考えて、総合大学の法学部を選んだのである。

 決して実家が裕福とは言えない鶴田は、建材業を営む親戚の家に住まわせてもらうことにした。部屋代と食費は掛からないが、その代わりに授業、バスケットボールの練習がない時は仕事の手伝いをすることになった。

 大正13年(24年)に創部された中央大学バスケットボール部は、全日本大学バスケットボール選手権大会で67年に優勝。鶴田が入学する前年の68年には準優勝している強豪だ。そうした中、鶴田は1年生ながら全日本候補に選ばれて合宿に参加できた。しかし外国のチームとの対戦で世界の壁は想像より厚いことを痛感する。

「もしかしたら、日本はアジア地区予選を突破できないのではないか?」

 そんな疑問が頭をもたげ、目標のミュンヘン五輪に出場するために方向転換する。それはバスケットボールをやめて、個人競技に転向することだった。

 団体競技はチームプレーに左右されてしまう。それよりも個人の力で勝敗が決まる個人競技のほうが結果に納得がいくし、個人競技ならばアジア地区予選がなく、国内でいい成績を挙げればオリンピックに出場できる。

 最初に考えたのは柔道だ。当時、柔道部には鶴田と同じ1年生に関川哲夫がいた。のちに大仁田厚のライバルとして悪名を轟かせるミスター・ポーゴである。ポーゴの話によると鶴田は「柔道部に入部したい」と連日のように押しかけたが、許されなかったという。

 ただ、鶴田自身は後年、「選手層の厚い柔道は大学1年生から始めても間に合うものではないだろう」と選択肢から外したと言っている。

 次に考えたボクシングは、ミュンヘン五輪には選手層の薄い重量級はエントリーされず、ミドル級までしか枠がないことで、これも選択肢から外れた。

 そして最後に残ったのがレスリングである。46年に創部された中大レスリング部もバスケ部同様に名門だ。

 中大レスリング部は、52年のヘルシンキ五輪フリー57㎏級で戦後初の日本人金メダリストになった石井庄八をはじめ、56年メルボルン五輪フリー62㎏級の笹原正三、フリー73㎏級の池田三男、64年東京五輪フリー63㎏級の渡辺長武、
68年メキシコ五輪フリー52㎏級の中田茂男(出場時は卒業して自衛隊)と5人の金メダリストを輩出している。

 柔術のグレイシー一族に4度も勝って、〝グレイシー・ハンター〞として総合格闘技ブームの頂点に立った桜庭和志は91年に同部の主将を務めているし、全日本プロレスの諏訪魔(諏訪間幸平)も同部出身だ。

レスリング部に拒絶された本当の理由

 鶴田はバスケ部を退部した後、この名門の門を叩いたが「バスケットボールの練習についていけなくてやめた人間に、もっときついレスリングができるはずがない」と再三にわたって断られ、入部を断念せざるを得なくなったという。

 それでもレスリングを諦めきれず、埼玉県朝霞の自衛隊体育学校でレスリングを始めて実績を作り、やがて中大レスリング部に勧誘されて、晴れて入部。そして72年のミュンヘン五輪に出場したというのが、本人が語っていたジャンボ鶴田のサクセス・ストーリーである。しかし、当時の関係者を取材してみると、新たな事実が浮かび上がった。

 北海道岩見沢に鶴田の中大レスリング部時代の同期生が住んでいる。鶴田が4年で入部した時の主将・鎌田誠だ。鎌田は北海道美唄工業高校で創部されたばかりのレスリング部に入部。3年生の時には、全国選抜高校生チームの主将としてアメリカ・オレゴン州ポートランドに遠征した。卒業後は中大に進み、2年生の70 年にはカナダ・エドモントンで開催された世界選手権でフリー90㎏級に出場して銅メダルを獲得。そして4年生の時のミュンヘン五輪にはフリー90㎏級代表として鶴田と一緒に出場している。

 鎌田は市議会議員を3期務めた岩見沢市の名士で、現在は市内でそば・うどん・ラーメンの店を4店舗展開する『かまだ屋』の代表取締役社長として手腕を振るう一方、日本レスリング協会理事、北海道レスリング協会会長としてレスリングの発展に尽力。180㎝近い長身で、未だに90㎏はあろうという立派な身体をしている。

現在はアマレスの指導とビジネスマンの二刀流として活躍中の鎌田氏

 「私も鶴田も昭和44年(69年)に中央大学に入学しましたけど、2年間は学園闘争がありまして、常にバリケードを作られて、学校の中にも入れなかったような状況で、ほとんど学校に行ってないんですよ。試験がなくてリポートばっかり書いてました。そういう意味では楽だったですけどね」と、鎌田は笑う。

 鶴田と鎌田が出会ったのは1年生の夏休み前。東京・富坂の中央大学理工学部キャンパスにあったレスリング道場だ。当時、鶴田はまだバスケットボール部に在籍していたが、体育の授業でレスリングを選択していたのだ。

 「それまで鶴田の存在は知らなくて〝ずいぶん、デカい奴がいるなあ〞と思って見たのが初めてですね。〝バスケ部なの?〞って、会話したことを憶えてますよ」

 鶴田はレスリング部への入部を希望したものの、3回にわたって門前払いを食らったというのが定説になっているが、鎌田はこう明かす。

「実際はちょっと違って、バスケットボール部が反対したんですね。バスケ経由で大学に入ってきたものだから、勝手に部を移ったらバスケ部の面子が潰れるじゃないですか。でも鶴田は〝レスリング部に入りたい〞と言い、我々も〝入れたい〞というのがありました。我々の監督の関二郎さんも入れたかったんですよ。やっぱり重量級は欲しいですからね。それで、たまにはレスリング部に顔を出していたんですけど、やはり部を移ることはできなかったんです」

 レスリングの道を閉ざされた鶴田は、雑誌でメキシコ五輪のレスリング代表の記事を読んでいた時にあることに気付いた。出場選手16人中7人が自衛隊所属だったのだ。

自衛隊体育学校で磨かれた最強の礎

 

 鶴田はさっそく、埼玉県朝霞の陸上自衛隊駐屯地にある自衛隊体育学校を訪ねた。そして社会人を対象としたクラスに通うようになった。しかし、それはオリンピックを目指すようなプログラムでなく、あくまでもトレーニングの範疇だったという。

 本気でレスリングに取り組みたい鶴田は、コーチの佐々木龍雄に直訴した。すると「これを2か月やってから来なさい」とトレーニングメニューを手渡された。それは筋力トレーニングを中心にしたハードな内容で、鶴田の本気度を試すものだったようだ。

 鶴田は東京・神田のトレーニングジムのYMCAにも通ってトレーニングに励んだ。そこは、66年10月にアントニオ猪木が東京プロレス旗揚げ前に公開練習を行い、コブラツイストとアントニオ・ドライバーを初公開した場所でもある。

 課せられたメニューをクリアし、YMCAでのトレーニングでバスケットボール選手の身体からレスリング向きに肉体改造した鶴田を見た佐々木は、本腰を入れてレスリングを教えることを決意したという。

 佐々木は鶴田を教えていた当時も現役バリバリの選手。64年の東京五輪にフリー87㎏級、68年メキシコ五輪にフリー78㎏級で出場し、その後のミュンヘン五輪にもフリー82㎏級で出場することになる。

 つまり、佐々木は東京五輪にはマサ斎藤(斎藤昌典=フリー97㎏以上級)、サンダー杉山(杉山恒治=グレコローマン97㎏以上級)、ミュンヘン五輪には鶴田(グレコローマン100㎏以上級)、長州力(吉田光雄=フリー90㎏級韓国代表)と、4人のプロレスラーと一緒にオリンピックに出場しているのだ。

 世界選手権では67年インド・ニューデリー大会フリー78㎏級で銅メダル、70年カナダ・エドモントン大会フリー82㎏級銀メダルに輝いた実力者である。

 鶴田はそんな佐々木の指導を1日6時間受けた。

 カナダ・エドモントンの世界選手権に一緒に出場した鎌田は佐々木についてこう言う。

 「強い選手でしたよ。重量級で上手な人でした。私も全日本の合宿とかで一緒になりましたけど、兄貴肌で面倒見のいい人でしたね。エドモントンの世界選手権の時には佐々木さんと同室になりましたよ。試合前には〝爪を切るな。あまり短くしちゃうと力が完全に出ない。何ミリか、残すほうがいいんだ〞とか細かいことを教わりました。だから鶴田もいろんなことを教わったと思いますよ」

 佐々木の指導を受けながら、鶴田は沼袋スポーツセンターに週3回通ってボディビルにも取り組む。バスケットボールで鍛えた足腰の強さには自信があったが、上半身の筋肉が他のレスリング選手に比べると、まだまだ貧弱だったからだ。

 レスリングは掴む力、引く力、持ち上げる力を必要とする。鶴田はベンチプレスで胸筋、デッドリフトで背筋を鍛え、さらにスクワットで臀部と大腿部を鍛えた。

 そして、70年11月1日〜3日に九州学院大体育館で開催された全日本選手権のフリー100㎏級に出場する。中大レスリング部所属ではなく、社会人でもない鶴田は、自衛隊体育学校が創設した『朝霞クラブ』の所属として、社会人扱いで出場したのだ。

 鶴田のレスリング公式試合デビュー戦の相手は前年の全日本選手権フリー100㎏級優勝者で、のちに92年バルセロナ五輪グレコのコーチ、96年アトランタ五輪のレスリング競技総監督にもなった現・日本レスリング協会副会長の下田正二郎。この強豪相手に4分39秒、見事にフォール勝ちを飾った。

 続く試合で、前年の全日本選手権でフリーとグレコの両スタイルで100㎏以上級優勝を飾り、2年後のミュンヘン五輪にはフリー100㎏以上級代表になる矢田静雄に2分17秒でフォール負けしてしまったが、結果は3位。レスリングを始めて1年足らずということを考えれば上出来である。

 翌71年、3年生になった鶴田は、いよいよ頭角を現す。

 フリー100㎏級で出場した社会人選手権(6月4日〜6日=東京・青山レスリング会館)では優勝した一戸隆男に0ー4の判定負けを喫してしまったが、6月21
日〜23日に日大講堂で開催された全日本選手権ではフリー&グレコの両スタイルで100㎏以上級優勝(グレコは出場1選手のため認定王者)。10月24日〜27日に和歌山県粉河町立体育館で開催された国体ではグレコ100㎏以上級でも優勝を果たす。

 鶴田が頭角を現したグレコは、全身のどこを攻防に用いてもいいフリースタイルと違って、下半身を攻防に用いることはできない。足を取ったり、刈ったりできないために豪快な投げ技が多い。プロレス流に言えば、反り投げはフロント・スープレックス、バック投げはジャーマン・スープレックス、俵返しはサイド・スープレックス、首投げへの反撃はバックドロップになる。すべて鶴田がプロになってから得意にしていた技だ。

 さらに世界にも進出して、8月27日〜9月5日にブルガリアのソフィアで開催された世界選手権大会にフリー、グレコ共に100㎏以上級で出場。共に2回戦失格になってしまったが、鶴田はレスリング界の大型新人として注目されるようになった。そして、そんな鶴田を中大レスリング部が放っておくわけがなかった。

 

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『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』の登場人物
秋山準、アニマル浜口、池田実(山梨県立日川高校バスケットボール部同級生)、磯貝頼秀(ミュンヘン五輪フリースタイル100㎏以上級代表)、梅垣進(日本テレビ・全日本プロレス中継ディレクター)、鎌田誠(中央大学レスリング部主将・同期生)、川田利明、菊地毅、ケンドー・ナガサキ、小橋建太、ザ・グレート・カブキ、佐藤昭雄、ジャイアント馬場、新間寿(新日本プロレス取締役営業本部長)、スタン・ハンセン、タイガー戸口、タイガー服部、田上明、長州力、鶴田恒良(実兄)、テリー・ファンク、天龍源一郎、ドリー・ファンク・ジュニア、原章(日本テレビ・全日本プロレス中継プロデューサー)、藤波辰爾、渕正信、森岡理右(筑波大学教授)、谷津嘉章、和田京平 
※50音順。肩書は当時。

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元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩によるベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)を大幅に加筆し、ジャンボ鶴田の実像を描くシリーズ。小佐野氏が記事、動画、Live配信を毎月配信していく。

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