
5月12日、伝説のレスラー・ジャンボ鶴田の命日の前日。天龍源一郎氏と藤波辰爾氏、そしてプロレスライターの小佐野景浩氏が「ジャンボ鶴田」を語り尽くすトークイベント「天龍源一郎×藤波辰爾×小佐野景浩トーク&撮影会」が開催される。
今回は、イベント開催に先立って、長年ジャンボ鶴田を取材された小佐野氏に、取材者という立場から見たジャンボ鶴田の人柄についてお話しいただいた。
取材者として見た「ジャンボ鶴田」
――小佐野さんが鶴田さんを取材者として初めて対面したのはいつ頃でしたか。
実はあまり覚えていないんです。なぜかというと、初めから親近感を持ってしまっていたから。それは鶴田さんは山梨県出身で、私の父親の実家も山梨なんです。同じ山梨出身者ということで勝手にこっちが近いイメージを持ってしまっていて、特別な緊張感はありませんでした。
『週刊ゴング』でアルバイトしていた時代に会っていると思いますが、いわゆる強面の人ではなく、気さくなお兄ちゃんのような人だったので、話しかけにくいということがないんですよ。
――初めて正式にインタビューをされたときはどうでしたか。
まだ社員になる前に単独インタビューをやったときも、あしらわずにちゃんと答えてくれました。
「なんでお前みたいな若造が話を聞きに来るんだ」という雰囲気が一切なくて、普通に受け答えをしてくれる人でした。だから感じが良かったですね。
あの頃の全日本は相撲出身の選手も多くて上下関係が厳しかったんです。
いまは控室に入れないんですが、当時は取材で控室に入ることが出来ました。
ただ人を見て「誰だこいつ」となったら、入れてもらえないし、こいつ信用してもいいかなとなって、ようやく出入りが許される。
だから誰か一人と仲良くなって、その人のところに行けば、○○選手と仲が良いんだということで、入れてもらえるんですよ。
そういう中で、鶴田さんと話しているというだけで周りからも「あいつはジャンボとつながりがある」と見てもらえた。取材者として本当に助かりました。
――プロレス以外の話はどんな内容が多かったですか。
取材以外ではプロレスの話は一切しない人でしたね。むしろプロレスの話は好きじゃないんだろうなと感じて、こちらからはしないように意識していたくらいです。
プロレスはあくまで仕事、という一線がずっとあったと思います。
雑談は不動産の話が多かったですよ。どこの地主がそろそろ土地を手放しそうだとか、遺産相続が大変だからこうなるだろうとか。
それとブランド品の話も少し出ましたね。揃えるというわけではなかったですが、人並みに興味はあったみたいです。
ジャンボ鶴田の人生設計
――「ケチ」と言われるほど、しっかりとお金の管理をされていた点について教えてください。
鶴田さんに珈琲とケーキをおごってもらったというと、「えー鶴田さんに」と驚かれました。それくらいお金に関してはしっかりしていたと思います。
特に当時のプロレスラーの方は「お金は使ってなんぼだ!」という人が多かったので。当時は異色の人だったかもしれないですが、いまだったら「すごい人だね」って言われていたと思います。
皮肉にも早くに亡くなってしまいましたが、人生設計もしっかりしていて。よく言っていたのはプロレスを辞めて、50代、60代になったときに人に迷惑をかけないで生きていけるようにしないといけない。そのためには今から準備していなければいけないと。
――書籍を読ませていただいたときに気になったのは、そこまでしっかりした人生設計をするようになった理由ですが、小佐野さんはどのようにお考えですか?
1つは貧乏だったからじゃないでしょうか。あれだけ大きい身体で、どうやって食べていくかと考えて、最初はバスケをやってオリンピックを目指しましたけど、そのあとレスリングは競技人口が少ないから五輪に行きやすい、それが経歴になる。
そうしたらプロレスに「就職」するのには有利になるという考えで動いていたわけだから。プロレスラーになったのはお金という側面もあると思いますよ。当時のプロレスは儲かっていたわけで。
――著作のタイトルにも込められた「普通になりたかった怪物」という表現が印象的です。これはどういう意味合いで付けたのでしょうか。
結局、鶴田さんというのは私生活では極めて普通の人だったんです。
でも周囲は彼のことを「怪物」と呼ぶ。
本人はそのイメージが嫌だったんだろうと思います。
「自分は普通の人間ですよ」とことさら見せたいところもあったはずで、そういう人間的な側面を書き残しておきたかった、というのがこの本につながった動機の一つです。
ジャイアント馬場との師弟関係
――ジャイアント馬場さんとジャンボ鶴田さんの関係はどんなものでしたか。
初めの段階では、プロレスラーとして、また人間として本当に多くのことを教わった師匠。でも1977年末のクーデター騒動で、鶴田さんがサムソン・クツワダの新団体設立に関与したとされて関係に亀裂が入った。馬場さんはクーデターのクツワダさんを即座に切りましたが、鶴田さんは残しました。
ただ、一度裏切ったと感じた相手はなかなか許さない人でした。猪木さんは意外と懐が広くて、出て行った選手を戻したりしていましたけど、馬場さんはそうじゃありませんでした。
この騒動をきっかけに馬場さんには逆らえないなと思っただろうし、常に馬場さんの存在を意識して生きてきたと思いますし、変な噂がでないように鶴田さんも気を遣っていました。
――最終的に二人の関係はどうなったのでしょうか?
天龍さんが辞めたりいろいろあった1990年代以降、馬場さんは鶴田さんをすごく信頼するようになっていったと思います。20年近い紆余曲折を経て、ようやくそこに至った。
どれだけ長い道のりだったか、ということですよ。
それぞれが感じた鶴田の強さ&思い出、同時代を生きた俺たちの時代【鶴田、天龍、藤波、長州】を熱く語ってもらいます!
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