元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

ナンバー2として全日本プロレスを盛り上げるジャンボ鶴田。しかしあるクーデター事件をきっかけに全日本のトップ・ジャイアント馬場との間に亀裂が生じてしまう。本連載でも度々言及している馬場の組織論は鶴田にどんな影響を与えたのか。

Index
・謀反首謀者はサムソン・クツワダ
・鶴田が感じたオーナー馬場の恐ろしさ

謀反首謀者はサムソン・クツワダ

 プロレスの歴史を紐解くと、その当時は闇に葬られて表沙汰にならなかった事件が存在する。そのひとつが1977年暮れに全日本プロレスで起こったクーデター事件だ。

 これが語られるようになったのは2000年代に入ってから。首謀者はジャイアント馬場の3代目付き人のサムソン・クツワダ(轡田友継)だった。私は08年9月にザ・グレート・カブキから聞いて、初めてこの事件を知った。

「笹川良一さん(政財界の黒幕で右翼の首領と呼ばれた人物)を担ぎ上げて新しい団体をやるっていう話で、俺も実際に轡田から声を掛けられたよ。その話にジャンボも乗っかったんだけど、馬場さんは轡田だけをクビにして、ジャンボは“轡田とは違って、お前は特別だから”って、不問に付したんだよ。だからジャンボは馬場さんに逆らえなかったよね。あの事件以後は、馬場さんはジャンボと選手会を引き離した。だから地方に行ってプロモーターとか営業の人間に“一席もうけているので、顔を出してもらえませんか?”って言われたらみんなで行くんだけど、ジャンボだけはホテルに残っていた」というカブキの話は生々しかった。

 事件当時、業師の高千穂明久としてファイトしていたカブキは、馬場元子夫人に「あなたが新団体に行っちゃったら、誰が全日本の若手を教えるの?」と泣きつかれたという。

「当時の俺はまだ30歳だったから“この若さでコーチ役かよ”って、レスラーとしては全日本に居場所がないことがわかって“1年でいいからアメリカに行かせてください”って馬場さんにねじ込んだんだよ」

 クーデター事件で全日本に嫌気がさした高千穂は、翌78年2月に渡米してフロリダでミスター・サトを名乗り、タイガー服部をマネージャーにミスター・サイトー(マサ斎藤)とのコンビでフロリダ・タッグ&USタッグのタッグ2冠王者に君臨した。

 1年半後の79年8月にけじめとして帰国し、その5ヵ月後の80年1月には再び渡米。カンザスを経てテキサス州ダラスに転戦し、81年1月1日にザ・グレート・カブキに変身。業師だった高千穂は“東洋の神秘”カブキで大ブレイクを果たすのである。...