いまだに根強いジャンボ鶴田最強説を検証する連載「新版・永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」。本場アメリカでの修行を終えた鶴田が遂に日本デビューへ。当時の日本プロレス界では珍しかったスープレックスを4種類も使いこなしていた「驚異の新人」はいかにしてその技を身につけたのか。当時の貴重な写真とともに、4つのスープレックス修得の背景を解説する。

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日本のファンにイメージを植えつけた日本テレビの戦略
4種類のスープレックスの秘密

日本のファンにイメージを植えつけた日本テレビの戦略

 日本でデビューも下積み生活もせず1973年3月22日に渡米、テキサス州アマリロのファンク・ファミリーに預けられた鶴田友美は現地で初マットを踏み、当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアにも挑戦。

 約半年の海外修行を終え、10月1日に帰国した。

 渡米する時にはスポーツ刈りの垢抜けない青年だったが、帰国前にハワイに寄って肌をこんがりと焼き、長髪に変身した姿は、アメリカの開放的な空気をまとって底抜けに明るく、新たな時代のスター性を感じさせた。

 鶴田がアマリロで修行していた半年間、全日本プロレスを中継する日本テレビも未来のスター選手として売り出すためのプロモーションを展開。

 当時はインターネットもなく入ってくる海外の情報は限られていたが、鶴田のアマリロでの活躍を様々な方法を使って全日本プロレス中継の中で伝えた。

 渡米から2ヵ月後の5月19日の放送で『鶴田選手紹介第1報』として写真で紹介。5月26日の『第2報』ではドリー・ファンク・ジュニアとの対戦の模様も写真で紹介した。

 初めての“動く鶴田”は、7月7日にザ・ビースト相手のデモンストレーションテープを放映。

 これはアマリロのTVマッチで『ウェスタン・ステーツ・スポーツ・プロモーション』が撮影したフィルムを提供してもらったもので、鶴田がビースト相手にダブルアーム、サイド、フロント、ジャーマンの4種類のスープレックスを披露し、それをスローで分解して、山田隆(東京スポーツ)が後付けで解説したもの。1分29秒の短いフィルムだったが、インパクトは大きかった。

 さらに8月6日にはロサンゼルス支局の人間がテキサス州エルパソまで出向いて現地取材。この日、鶴田はバック・ロブレイと対戦している。

 こうした形で日本テレビは10月の凱旋帰国までに「4種類のスープレックスを使う驚異の新人・鶴田友美」をファンに印象付けたのである。

4種類のスープレックスの秘密

ジャーマン・スープレックス

 かつて日本のプロレスファンにとってスープレックスは最高のテクニックというイメージがあった。“プロレスの神様”カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドは「プロレスを芸術の域にまで高めた」と言われた。この芸術品の日本人の使い手は、ゴッチに伝授されたヒロ・マツダとアントニオ猪木しかいなかった。...