最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田。彼の本質に迫る重厚なノンフィクションがSYNCHRONOUS(シンクロナス)でスタート!

 プロレスライターの小佐野景浩氏が、自身の著書『永遠の最強王者ジャンボ鶴田』(ワニブックス)に大幅加筆をしてお届けする、プロレスファン必見のシリーズ連載です!

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 ジャンボ鶴田、レスリングを始めてわずか3年で念願のオリンピック出場を果たす。

 しかしミュンヘン五輪は、栄光ではなく挫折の大会となった。

 鶴田、そして日本人選手たちが感じた世界との「圧倒的な差」とは?

 また同時代にオリンピックに出場した長州力、谷津嘉章とジャンボ鶴田を徹底比較し、当時の“最強”レスラーを考察する。

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ミュンヘン五輪出場の栄光と挫折

 東日本学生リーグ戦から1か月後の全日本選手権で、鶴田と「鶴田が勝てなかった男」磯貝秀頼はフリーとグレコの100㎏以上級で再び対戦。グレコは引き分けに終わり、総合成績としては鶴田が優勝。フリーは両者共にポイントが入らずに、両者警告の引き分けで同時優勝という形になった。

 この結果、ミュンヘン五輪はフリー100㎏以上級に実績のある磯貝、グレコ100㎏以上級は全日本選手権優勝の鶴田が選ばれた。

 1972年8月26日、ミュンヘン五輪開会式。鶴田は高校3年生の時に憧れた日本代表の赤いブレザーを着てミュンヘン・オリンピアシュタディオンに立った。最前列でバレーボールの大古誠司、森田淳悟、横田忠義のビッグスリー、バスケットボールの沼田宏文と談笑しながらの行進である。

 日本のレスリング代表は鶴田、磯貝の他に中央大学レスリング部主将で鶴田と同期の鎌田誠(フリー90 ㎏級)、鶴田の師匠の佐々木(フリー82㎏級)、山本美憂・聖子姉妹と山本〝KID〞徳郁の父親の山本郁栄(グレコ57㎏級)、フリー57㎏級金の柳田英明、フリー52㎏金の加藤喜代美、フリー68㎏級銀の和田喜久夫、グレコ52㎏銀の平山紘一郎ら、総勢20人という大所帯だった。

 ミュンヘン五輪のレスリングは3分3ラウンド。勝敗はフォール、判定による決着、警告失格などによる引き分け。大会はバッドマーク(減点)システムで行われ、バッドマークはフォール勝ち=0点、判定勝ち=1点、判定負け=3点、フォール負け=4点としてバッドマークが6点に達した選手は失格になるというものだった。

 鶴田がエントリーしたグレコ100㎏以上級は12選手が参加した。その中で鶴田は1勝もできなかった。1回戦はハンガリー代表のヨセフ・チャタハリに警告負け、2回戦もユーゴスラビアのイストバン・セメレディに警告負けで持ち点が0になってしまった。

 レスリングを始めてまだ3年の鶴田には技がなく、ただ前に出るだけだったために警告を取られてしまったのだ。また、国際大会は71年の世界選手権しか経験がなかっただけに、外国人選手相手の戦術が備わってなかった。

わずか3年でオリンピックの舞台に立つ鶴田の表情は誇らしげだ

 「鶴田は、日本で勝つには十分だったと思います。でも世界となるとまったく別です。今、グレコだと上限が130㎏、フリーが125㎏。それ以上はレスリング界では人間とみなされなくて出場できないんだけど、僕らの時の重量級は100kg以上級ですから何kgあってもいいんですね。だから僕らの時のヘビー級はレスリングの種類が全然違うんですよ。僕が112㎏ぐらいで出てたんですね計量するとみんなパスなんだけど、100㎏以上ないと駄目だから僕は何回も計量させられて。やっぱり日本人選手は世界に出ると小さかったんですよ。僕は身長が182cmぐらいで、一番重い時で117㎏、軽い時は106㎏ぐらいでしたから」と磯貝。

 その磯貝は、フリー100㎏以上級で銅メダルに輝いたクリス・テイラー(AWAのバーン・ガニアにスカウトされて73年12月にプロレス・デビュー)に3回戦でフォール負けを喫して失格になった。

「結局、日本のレスリングはフリーなんだけど、世界に出ていくとフリーでもグレコみたいな試合になるんです。一本背負いと首投げでは勝てないですよ。反り投げができないと。あの200kg前後のクリス・テイラーがミュンヘンでは西ドイツの奴(のちにアントニオ猪木と格闘技戦をやったウィルフレッド・ディートリッヒ=グレコ100㎏以上級)に反り投げをやられて、金メダルのアレキサンダー・メドベジ(フリー100㎏以上級)に二枚蹴りでバーンと倒されたけど、日本人にはそんな力ないですよ。まず手が回らない(苦笑)。170kgの選手には勝ちましたけど、それは立ち上がりが遅いからであって、タックルなんかで行っても倒れないですよ」

 その4年後の76年モントリオール五輪のフリー100㎏以上級で磯貝は6位に入賞したが、当時のレスリング重量級は世界で戦うレベルには達していなかった。それを鶴田も痛感したはずだ。

五輪代表・鶴田、長州、谷津の比較

 プロレスで鶴田と同時代に活躍したのは、同じ72年ミュンヘン五輪に韓国のフリー90級代表(3回戦失格)として出場した吉田光雄こと長州力、76年モントリオール五輪フリー90㎏代表(4回戦失格)、80年モスクワ五輪フリー100㎏級代表(日本の出場ボイコットにより不参加)の谷津嘉章だ。

 長州は鶴田の1学年下だが、前述のように対戦する可能性があったのは72年の東日本学生リーグ戦だけで、基本的には長州の階級が下だったために対戦は実現していない。

 谷津の場合は、鶴田と長州がプロに転向後の大学進学だったために、アマチュア時代には接点がなかった。

 この3人が同じ時期にアマチュアで戦っていたら、一番強かったのは誰だったのだろうか? 鎌田、磯貝のふたりに聞いてみた。

 鎌田の長州との対戦成績は、70年9月の全日本学生選手権フリー90㎏級で判定勝ち、71年6月の全日本選手権フリー90㎏級で判定負け、72年6月の全日本選手権90 ㎏級ではお互いにポイントが入らずに1勝1敗1引き分けの五分の星。

 谷津とは、75年10月の三重国体フリー90㎏級で判定勝ち、76年2月のモントリオール五輪第2次選考会フリー90㎏級でフォール勝ち、76年4月の全日本選手権フリー90㎏級でフォール負け、モントリオール五輪最終選考をかけたプレーオフで判定負け。対戦成績は2勝2敗の五分だが、最後のプレーオフで敗れたことにより、鎌田のミュンヘンに続く五輪出場の夢は絶たれ、レスリングの現役から退
いた。

「長州は攻めないで、相手が来たら潰すことばかりを考えていた。中途半端にタックルを仕掛けたら潰されちゃいますよ。あと、長州は岩みたいに身体が硬いんですよ。だから他の選手とやるよりも倍疲れるんです。同じ動きをしていても疲れる度合いが高いですよ」

 そう長州を評する鎌田は谷津を絶賛する。

「谷津は手足も長いから、ホントに攻めづらい選手でしたよ。ガードが固くなっちゃったらもう中に入って行けないんですよね。それでいて、攻めてくるから。長州みたいに待ってないですから。私が負けたのはタックルで何回か入られたんです。タックルは上手でしたよ。重量級でタックルはなかなかやらないんですよね。普通は、すかしタックルで後ろになんとか回ろうとするんですけど、ちゃんと普通のタックルをやられてポイントを取られました。けっこう投げ技も持ってますしね。鶴田、長州、谷津の3人を並べたら、谷津が一番強かったんじゃないかな。アマチュアのルールで試合をやったらね」

 一方、磯貝は70年5月、専大1年生になったばかりの長州と東日本学生リーグ戦のフリー90㎏級で一度だけ対戦して2ー1の判定勝ちしている。

「当時、一番強かったのは90kg級……長州力ぐらいのところですよ。だから、その人たちに重量級が負けちゃうんですよ。彼は高校の時、73kg級で出ていて、それから身体を大きくしてきましたから。強いのは僕や鶴田より1階級下にいたんです。僕が長州に勝てたのはギリギリですよ。ホントにタックルを1回か、2回取れただけじゃないですかね。動きはあの時代の少年レスリングだと思うんですよ。全国チャンピオンをたくさん出している道場で学んでいるから、基本の構えがいい。正攻法の構えなんです。平行に構えて脇を締めてドーンと来る。めちゃくちゃ腰が強いです。普通だったら吹っ飛ぶんだけど、長州は飛ばないです。だから物凄く腰が強かったです。得意技は……山口の少年レスリング出身だから片足タックルだったと思うんですけどね」

 谷津とは対戦経験はないものの、「谷津は足利工大から日大に進んだけど、その頃、足利工大は東京とメキシコのオリンピックに出た上武洋次郎さん(フリー57㎏級)が面倒を見ていて、あの人も基本に厳しい人ですから、谷津もしっかりしていましたね」と、磯貝も高評価だ。

 そして鎌田と同じく、鶴田、長州、谷津の3人の中では谷津を一番に推す。

「時代が違うけど、やっぱり強かったのは谷津ですよね。鶴田は経験が2〜3年だから比較したら可哀相だけど。谷津はスタミナもあったし、良い片足タックルも持っていたし、凄く強かった。長州に勝った鎌田さんとか、その時代の人にも勝ち抜いていますから、やっぱり谷津が強かったんじゃないですか? アジア大会も僕と谷津の後は優勝できなくなっていますから、やっぱり彼が強かったんじゃないですかね」

国体でアマチュア生活に幕

 ミュンヘン五輪前に3引き分けの鶴田と磯貝は、五輪終了後の10月23日〜26
日に鹿児島県立の枕崎高校で行われた国体で戦った。全日本プロレス入団記者会見を行ったのは10月31日だから、これが鶴田にとってアマチュア最後の大会となった。

 鶴田が出場したフリー100㎏以上級には、鶴田と磯貝の他にも、ミュンヘン五輪にフリー100㎏級に出場した矢田静雄がエントリー。ここに当時の重量級の五輪代表が勢揃いしたわけだ。

 結果は優勝=磯貝、2位=矢田、3位=鶴田。鶴田は磯貝、矢田に判定負けを喫して、アマチュア・レスリングにピリオドを打った。

 磯貝はアマチュア時代の鶴田をこう述懐する。

「鶴田はまだ経験がなかったから、そこまでの技術がなかったんです。足腰は強かったけど身体が大きいから、相手に乗っけられて簡単にポーンと投げられちゃう。鶴田の1階級下のグレコ100㎏級でミュンヘンに出た斎藤真にも反り投げ1発で持っていかれたことがありますからね。あと、彼は膝を突いてからの立ち上がり、四つん這いになってからの立ち上がりが遅いんです。だからゆっくり立ってきたところで足を取ればよかったんですよ。いくら佐々木さんに教わったといっても3年ぐらいでは、そんなにレスリングは浅くはないですよね」

 国体での最後の対戦の勝利についてはこう語る。

「取ったのは片足タックルです。普通は左足……僕からすると右側に動く片足タックルで取るんですけど、ずっと一緒に練習してきて取りづらいから、右に3回か4回フェイントかけたんです。そうすると〝磯貝はこっちにしか来ない〞と思うわけですよ。それで癖をつけさせて〝行くぞ、行くぞ〞で、反対側に行ったんです。そうしたら鶴田は付いてこれなくて倒れたんです。その1ポイント差だけですね」

 最後に磯貝はこう言った。

「これまでも鶴田に関する取材を受けてきました。たしかに当時の日本レスリングの重量級は選手層が薄かったし、鶴田は経験が浅かった。正直、日本では代表選手になれても、まだ世界に通用するような選手ではなかったと思います。でも、強いとか弱い、巧いとか下手とかっていうことではなく、大学1年からレスリングを始めた鶴田がオリンピックに出場できるまで物凄く努力したということに、彼のアスリートとしての価値があると思います」

 高校3年生の時にミュンヘン五輪に出ることを目標に掲げた鶴田は、バスケットボールからレスリングに転向し、紆余曲折の末にそれを達成した。

 そして、今度はその過程で生まれた新たな夢に突き進むことになる。

 
 

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『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』の登場人物
秋山準、アニマル浜口、池田実(山梨県立日川高校バスケットボール部同級生)、磯貝頼秀(ミュンヘン五輪フリースタイル100㎏以上級代表)、梅垣進(日本テレビ・全日本プロレス中継ディレクター)、鎌田誠(中央大学レスリング部主将・同期生)、川田利明、菊地毅、ケンドー・ナガサキ、小橋建太、ザ・グレート・カブキ、佐藤昭雄、ジャイアント馬場、新間寿(新日本プロレス取締役営業本部長)、スタン・ハンセン、タイガー戸口、タイガー服部、田上明、長州力、鶴田恒良(実兄)、テリー・ファンク、天龍源一郎、ドリー・ファンク・ジュニア、原章(日本テレビ・全日本プロレス中継プロデューサー)、藤波辰爾、渕正信、森岡理右(筑波大学教授)、谷津嘉章、和田京平 
※50音順。肩書は当時。

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元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩によるベストセラー『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス)を大幅に加筆し、ジャンボ鶴田の実像を描くシリーズ。小佐野氏が記事、動画、Live配信を毎月配信していく。

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