アート鑑賞をもっと楽しみたい方、独学から一歩踏み出して「本物の知性」に触れてみたい方へ。
NHK『3か月でマスターする西洋美術』でも話題の田中久美子教授(文星芸術大学)が、普段美大の講義で伝えている最先端の西洋美術史をわかりやすく体系化してお届けするコンテンツが始まります。
ラスコーの洞窟壁画や古代ギリシャ彫刻から、ルネサンスの三巨匠、そして20世紀の現代美術まで——。 単に作品を鑑賞するだけでなく、当時の文化・社会・時代の「網目」をひもときながら多層的に徹底解説。誰もが知る名画の隠された文脈や、美術史を語る上で欠かせない重要作品の魅力を余すことなく紐解きます。
一度学んだ方の「学び直し」はもちろん、次の美術館めぐりが何倍もワクワクするものに変わるでしょう。
古代美術の歴史は、人類が祈りを込めて動物を描いた洞窟壁画に始まり、死後の永遠を求めたエジプト美術、理想の人体を追究したギリシャ美術、巨大帝国ローマが築いた建築と都市、そして信仰を形にした初期キリスト教美術へと大きく進化していきました。
彫刻や絵画、建築などの代表作を鑑賞するだけでなく、時代背景や宗教、思想とともに古代美術を読み解き、西洋美術の礎がどのように築かれたのかを探っていきます。
パルテノン神殿はギリシャ美術の到達点
厳格様式期に続く盛期クラシック期は、アテネの街を見下ろすアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿が完成したことから、「パルテノン時代」ともいわれます。都市国家アテネは紀元前5世紀頃より政治、軍事、商業、文化などさまざまな分野で革新的な動きがあり、これらの飛躍的な発展を象徴する建造物がパルテノン神殿でした。ギリシャ文明を代表するとともに、ギリシャ美術の到達点ともいえる神殿です。
神殿完成までの経緯を簡単に紹介しましょう。紀元前490年、ギリシャを襲ったペルシャ軍は「マラトンの戦い」で撃退されますが、10年後の紀元前480年、再びギリシャを襲撃します。この時ペルシャ軍は、建設中だったパルテノン神殿をはじめ多くの建築物を破壊しました。
アテネではペルシャの脅威がなくなるまで神殿を再建せず、30年以上放置されていました。紀元前479年、「プラタイアの戦い」などによってペルシャ軍の本土侵攻は退けられ、紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発するまでの50年間は、アテネの黄金期となります。この時期のことを「五十年期(ペンタコンタエティア)」と呼びます。
五十年期にアテネで民主政治を完成させた政治家がペリクレス(紀元前495年〜前430年頃)です。ペリクレスは紀元前447年、パルテノン神殿の再建にも着手し、紀元前432年、15年の歳月をかけて再建しました。神殿建設の総監督は三大彫刻家のひとりフェイディアスです。フェイディアスは紀元前460年頃〜前430年頃にアテネで活躍した彫刻家で、神殿の彫刻も担当しています。また、当時活躍していた建築家イクティノスとカリクラテスが設計・建設を担当しました。
まずは神殿建築を見ていきましょう。古代ギリシャ建築の円柱は柱頭(柱の頭部)の装飾や比率によって大きくドーリス式、イオニア式、コリント式の3つに分類されます。最も古い様式は、柱頭が簡素で柱に縦溝(フルート)があるドーリス式です。神殿外側にはドーリス式の柱が東西に各8柱、南北に各17柱、合計46柱が配されています。柱が建っている基壇部分の床面は、水平ではなく中央に向かってやや盛り上がった曲面状になっており、4隅にある円柱は、わずかに内側に傾けられています。これらは人の目の錯覚によって建物全体が外側に広がって見えるのを防ぐためのものです。ほかにも柱の高さや直径を微妙に変えるといった調整がされ、神殿が美しい姿に見えるような工夫が施されています。
神殿内部の内陣にはイオニア式の円柱が用いられています。外部ドーリス式、内部イオニア式という併用は、盛期クラシック期の成熟した様式感覚を象徴するものです。しかし、美しさを誇った神殿は1687年、オスマン帝国の火薬庫として使われていた時代に、ヴェネツィア共和国軍の砲撃を受けます。その際、火薬に引火して神殿の内部が完全に崩壊してしまったのでした。
パルテノン神殿の彫刻装飾
神殿全体はギリシャ神話をモティーフにした彫刻で飾られ、神々の姿は均整の取れた人間の理想的な肉体表現になっていました。それは古代ギリシャ人が、神々は人間と同じ姿をしていると考えていたからです。第4回でも少し紹介しましたが、これを「神人同形(アントロポモルフィズム)」といいます。
また、2023年に行われた大英博物館やキングス・カレッジ・ロンドンなどの共同研究チームによる科学調査で、大理石でできた円柱は当時から純白ですが、彫像や浮彫は鮮やかな彩色が施されていたことが確認されました。
パルテノン神殿の外側にはドーリス式の「フリーズ」があり、そこにはトリグリフ(3本の縦方向の溝が彫られた装飾的な飾り板)と正方形に近い「メトーペ(石板)」が交互に配置されています。このメトーペを含むフリーズ部分と、屋根のすぐ下の三角形の「ペディメント(破風)」部分に、主な彫刻装飾が施されていました。
東側のペディメントにあった彫刻は「アテナ女神の誕生」を描いています。頭部や手足など欠けている部分がありますが、神々の肉体は均整のとれた美しい姿をしています。
また、「アテナ女神の誕生」には、《三美神》と呼ばれるヘスティア、ディオネ、アフロディテと解釈されている女神像もありました。 薄い衣をまとった女性たちの身体は、柔らかな質感が表現されており、「濡れた衣(ウェット・ドレープ)」と呼ばれる、大理石でありながら薄く柔らかい布の質感が透けて見えるような高度な技法が用いられています。このように古代ギリシャ彫刻は、人間の肉体美を追求することで、神々の美しい姿を表現し、発展していったのでした。これらはフェイディアスが統括して制作されたと伝えられています。
東ペディメントの彫刻のほか、大英博物館はパルテノン神殿にあった彫刻の多くを所蔵しています。その理由は19世紀初頭、イギリスの外交官第7代エルギン伯爵が、彫像や浮彫を切り取ってイギリスへ持ち帰ったことにありました。しかし、財政難に陥った伯爵は1816年にこれらのコレクションをイギリス政府に売却し、のちに大英博物館に収蔵されます。コレクションは伯爵の名をとって「エルギン・マーブル」と呼ばれています。
エルギン伯爵が彫刻などを持ち帰ったことは、当時、ギリシャを支配していたオスマン帝国の許可を得たとされていますが、これについては現在、ギリシャとイギリスで議論が続いています。ほかにもアテネにあるアクロポリス博物館、パリのルーヴル美術館などもパルテノン神殿の彫像や浮彫を所蔵しています。
西側ペディメントはアテナ女神とポセイドンのアッティカ(アテネを中心とし、エーゲ海に突き出したアッティカ半島一帯)の地をめぐる主権争いの場面の彫刻がありましたが、大部分が失われてしまいました。 アテネのアクロポリス博物館に展示されている、オーストリアの彫刻家・考古学者であるカール・シュヴェルツェクによる復元模型から、当時の彫刻を垣間見ることができます。
この西側ペディメントの彫刻は次のような画面を表しています。主権を決めるためにアテナ女神はオリーブの木を、ポセイドンは海水の泉を、それぞれ住民への恵みとしてアクロポリスに出現させます。その結果、アテナが選ばれましたが、憤慨したポセイドンは津波を起こしてアッティカを海に沈めようとします。これを知ったゼウスはヘルメスを遣わして(または雷を落として)、ポセイドンをたしなめるというものです。ポセイドンの視線の先にある空白にはゼウスを象徴する雷やヘルメスの姿が想定でき、アテナの勝利の物語を描きながら、ゼウスの威光も示しています。
メトーペ彫刻は東西に各14、南北に各32、合計92ありましたが、現存するのは64です。それぞれに主題があり、東は「神々と巨人族の戦い(ギガントマキア)」、西は「ギリシャ人とアマゾン族の戦い」、南は「ラピタイ族とケンタウロス族の戦い」、北は「トロイアの略奪」というように、ギリシャ神話におけるギリシャと他民族の戦いが描かれていました。
西側メトーペにわずかに残る浮彫は、「アマゾン族との戦い」を主題にしたものです。
パルテノン・フリーズとアテナ像
パルテノン神殿の内部の外壁上部のイオニア式フリーズに施された、途切れなく続く連続浮彫を「パルテノン・フリーズ」といいます。本尊である「アテナ・パルテノス(処女神アテナ)」の巨大な像が安置された神殿内の神室の外壁4面に、高さ106cm、全長約160m、彫りの深さ約6cmの浮彫があったのです。
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