江戸の男女が実際にどんな会話をしていたのか?
当然ながら録音した音声は残っていないため再現するのは困難…しかし、手がかりはあります。
それは、戯作(大衆小説)の中のセリフです。読み解くと、身分差、男女差、職業差、年齢差などの厳格な社会だったことがわかります。
とくに春本や春画の書入れは、江戸の男女が性をめぐる場面でどんな用語を用いていたのか、どんな言い回しをしていたのかを生き生きと伝えています。
この連載では、江戸の性文化に精通した筆者がこれらを紐解き、江戸の男女の性をめぐるやりとりを再現、江戸時代の男女のリアルをお届けします。
語彙は乏しくすべて「なめる」
AV(アダルトビデオ)は春画の現代版と言えるであろう。ところが、両者には内容に顕著な違いがある。それは、口淫(オーラルセックス)の比重である。
オーラルセックス(フェラチオ、クンニリングス、シックスナイン)はAVでは必須であり、時間的にもかなりの部分を費やしている。現代人、とくに男を最も性的に興奮させるのはオーラルセックス、と言っても過言ではあるまい。
ところが、口淫を描いた春画は珍しい。とくにフェラチオを描いた春画は皆無に近い。理由は単純明快である。
春画では陰茎を巨大に描く伝統があった。そのため、フェラチオはできないのだ。無理に口に含もうとしたら口裂け女になってしまう。
女がフェラチオにいどもうとしている春画はあるが、かろうじて唇や舌先を亀頭に押し当てているだけである。それが限界なのだ。
というわけで、春画に口淫が少ないからと言って、江戸の男女が口淫をしていなかったというわけではない。ただし、語彙は貧弱である。
フェラチオもクンニリングスもシックスナインも、すべて「なめる」だった。その実例を見ていこう。
●髪を洗う女を見ていると、男はなめたくなってきた。
「また、ひとつ、ぼぼでもなめて気を晴らそう。ああ、いいぼぼだ。こいつぁ、どうしても、なめる事だろう」
春本『会本妃女始』(喜多川歌麿・勝川春潮、寛政2年)
図1は、髪を洗う女を、男が下からなめようとする光景である。かなり奇異なかっこうでのクンニリングスといえよう。
●まず時次郎が、遊女浦里にクンニリングスをすると、
「いっそのこと、思うさま、なめてやろう」
と、股座(またぐら)へ、ぐっと顔を突っ込み、さねがしらをちょいちょいと、舌でいただいて、左右をなめまわし、または舌を奥へ入れ、さまざまとなめまわされ、
「ああ、もう、いっそ、いきんす」
(中略)
浦里も、
「今度は、ぬしのを、なめいしょう」
と、また時次郎が陰茎(へのこ)を口へ含み、鈴口から雁のまわりを、いろいろなめまわされ……
春本『新曲枕表紙』(英泉風、文化15年)
「さねがしら」はクリトリスのこと。
浦里がお返しに、時次郎にフェラチオをする。
お返しになめるというのが、男としてはなんともうれしい。
●男が女に、シックスナインをしようと言う。
男「いいことがある。たがいに開(ぼぼ)と魔羅を、なめっくらをしよう」
女「なめるのかえ」
男「いやか」
女「いいえ、いやじゃあ、ねえのさ」
春本『婦男愛添寝』(丘亭春信)
男はシックスナインを思いついたようだ。適当な言葉がないので「なめっくら」と称している。
ためらいながらも、男の意に応じようとする女がいじらしい。
●男が、女の股を広げて局部を見つめる。
女「あれさ、およしよ。こんな汚い所を、お見でないよ。ひょっと、愛想が尽きて、これぎりにでもなると、いやだよ」
男「かわいいとも、いとしいとも、言いようのないように惚れたてめえのことだものを。汚いどころか、ありがてえは。どれ、心中になめてみしょう」
春本『逢身八契』(歌川国貞、文政10年)
「心中」は、気持ちが本当であることを示す証拠のこと。男は自分の気持ちを示すため、クンニリングスをするという。
なお、女が自分の陰部を汚いと評するのは、日本女性の謙虚さ、つつましさである。
●情交を終えたあと、女がしみじみと男に言う。
「ほんに、いつもながら、達者なことだね。これだから、おまえのを食べた者は新造(しんぞう)でも年増でも、なかなか忘れはしないよ。よっぽど、おいしいと見えるねえ。どれ、どんな味か、ちょっと、なめてみよう」
春本『寝覚床幾夜廼睦言』(歌川国貞二代、安政2年)
男は達者と言われているので、腎張(第2回「房事過多」で衰弱した「腎虚(じんきょ)」、精力絶倫の「腎張(じんばり)」は江戸の男にとって本望だったのか?」参照)なようだ。「新造」は、若い娘のこと。
女はフェラチオをするが、男の物を「おいしい」と称している。男にとってこんなうれしいことはあるまい。男冥利に尽きるとは、まさにこのことだろうか。
●図2は、男がクンニリングスをしながら、
「これはうまし。甘露、甘露」
と感激している。甘露は、甘くて美味なこと。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
