徳川政権末期の「徳川近代」という時代は、明治新政権が政治的に江戸時代を全否定することによって抹消されてしまった。

その影響は現代まで続いている。勝者である官軍によって歪められた歴史は、幕末を生きた偉人たちの存在を掻き消してしまった。

しかし、来年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」で、幕臣として近代化に尽力した小栗忠順が主人公になるなど、少しずつ歴史の見方も変わってきている。

本企画では、小栗忠順のみならず「幕末・維新を動かした真の主役たち」というべき人物に着目。今回は音声で収録した内容を編集部が記事としてまとめてお届けします。

フルバージョンの音声はこちらから阿部正弘#

25歳で老中に——阿部正弘が示した「徳川近代」

 幕末史は黒船来航や討幕運動ばかりが語られがちですが、重要なのは「誰が、どんな感覚で幕府の舵を握っていたのか」です。ここでは阿部正弘の人物像を手がかりに、「徳川近代」と呼ぶべき時代について論じていきます。

 阿部正弘は福山藩(現在の広島県東部と岡山県西部の県境付近)の第7代藩主で、石高は10万石。のちに加増され11万石となります。生まれは文政2年(1819年)で、文化文政期——江戸文化が花開いた時代の人です。江戸時代の大名は藩主であっても出生地は江戸が多く、阿部も江戸屋敷(西の丸屋敷)で生まれました。

 家督を継いだのは天保7年(1836年)で、満年齢にすれば17歳、18歳になる直前でした。翌年、福山へ「お国入り」しますが、国元に戻ったのは生涯でこの一度きりでした。幕府中枢に入ると、職務は過酷で、国へ帰る暇などないというケースも多く、阿部も江戸にあって病没します。

 阿部は天保期に奏者番に就きます。奏者番は出世コースとして知られ、大名や旗本の将軍への御目見の取り次ぎや調整、献上品のチェック、将軍への報告、贈り物の手配、江戸城での儀式の差配などを担いました。言い換えれば、城中運営の「要」を担う役職で、譜代大名から選ばれるのが通例です。

 その後、寺社奉行を経て、25歳の若さで老中に就任します。天保の改革で知られる水野忠邦を退け、老中首座のような位置に立った。ここから、いわば「阿部時代」が始まります。

ペリー来航で何が変わったのか? 阿部政治の評価が割れるポイント

 ところが興味深いのは、阿部が老中になってから、調整型の性格を強めた点です。各方面の話をよく聞き、自分の意見を強く押し出さず、結論を簡単には言わない。捉えどころがない、優柔不断だ――そう批判される余地もあり、揶揄するようなあだ名で呼ばれたとも伝わります。

 一方で、施設整備や制度づくりを進め、「徳川近代」と呼べる時代をリードしました。ただ、ここで論点になるのが、阿部の政治が「前向きな改革」だけで語れるのか、という点です。象徴的なのが、ペリー来航時の対応でした。

 ペリーが携えた国書(フィルモア大統領名義)を受け取った際、阿部はその内容について、大名や旗本だけでなく幅広い層の目に触れさせ、意見を集めたとされます。庶民が政治に意見できた例として吉宗の「目安箱」が知られますが、阿部は国書を使って似たことを行った、という見方もできます。吉原の女郎屋の主人に至るまで国書を見て意見した、という記録もあり、「酒を振る舞って油断させ、機を見て刺し殺せ」といった過激な提案まで寄せられました。

 しかし本来、幕府政治に口を出せる大名は限られていました。一部の譜代大名だけが幕政に関与し、御三家であっても政治に直接口を出すことは原則として想定されていなかった。ところが阿部は国書を外様大名や大衆にまで公開した。ここが、評価が割れるポイントです。

 もし本気で「広く意見を聞く」こと自体を目的化していたのだとすれば、意思決定の責任が曖昧になり、統治の原則を揺るがしかねない。さらに、重要案件は公開し意見を集めるべきだ、すべての大名が幕政に口出ししてもよい――そんな「前例」を作ってしまった点は、のちに幕府へ跳ね返る負の遺産にもなり得ます。阿部の功績は確かに大きいが、同時に制度的な余波も見なければならない、ということです。

「徳川近代」の象徴としての築地ホテル

 阿部は病没しますが、過労に近かったとも言われています。そこで阿部の死後も官僚たち――特に小栗上野介忠順ら――が奔走して形にしたとされる「徳川近代のシンボル」を挙げます。現在の築地付近にあった築地ホテル館(通称・江戸ホテル)です。外国人の公使館関係者や商人の間で評判が高い近代的ホテルで、4階建て、客室102室、バーやビリヤード室、シャワー室、洋式トイレなどを備えていたとされます。設備や様式は当時の欧米の高級ホテルに近く、江戸の街が急速に“国際化”していく流れを象徴していました。

 注目すべきは、これが突貫工事で完成したとされる点です。慶応3年(1867年)に着工し、翌年8月に竣工という、わずか1年のスケジュール。列強の圧力が近代化の速度を押し上げたと見るなら、築地ホテルはその圧力を受け止めた「かたち」でもあります。施工は清水組(現在の清水建設)が受けもち、当時の図面は今も残っています。

 さらに、このホテル建設では、民間に出資を求め、出資金に応じて利益を分配するという方式がとられました。官と民が連携する仕組みで事業を動かす発想は、現代のPPP(Public Private Partnership:官民連携)やPFI(Private Finance Initiative:民間資金等活用方式)を連想させるでしょう。「会社」や「株式」という言葉は坂本龍馬のイメージで語られがちですが、それはあくまでフィクションであり、実際は幕府官僚が現実のプロジェクトとして運用していたのです。

 黒船来航についても、「日本中が爆弾が落ちたように大騒ぎした」という単純な図式には注意が必要です。阿部政権はペリー来航の時期について、正確な情報を事前に把握しており、当時の幕府官僚団は、補給線の有無や蒸気船の航行日数、石炭需要といった兵站・技術面まで織り込みながら、「何を与え、何を拒むか」を冷静に読んでいました。ペリーとの第一回交渉、さらにハリスとの交渉でも、アメリカと互角に渡り合った点は高く評価されています。

 日米和親条約や日米通商条約は、教科書では「不平等条約」と書かれることが多いと思います。しかし、当初から不平等条約だったのではありません。後になって不平等性が強まったのは、討幕派による――国際関係を無視した過激なテロ行動をした“賠償”として関税率を下げざるを得なくなったことによります。少なくとも当初は贅沢品に35%、一般品に20%といった関税を課していました。日米交渉の歴史の中で、たった一度、日本がきちんと米国と渡り合った時代があった。それが阿部政権の運営した「徳川近代」だったと言えるのです。

<次回>【幕末・維新を動かした真の主役たち 第4回】井伊直弼#1

こちらの記事は以下の商品の中に含まれております。
ご購入いただくと過去記事含むすべてのコンテンツがご覧になれます。
幕末・維新を動かした真の主役たち
880円(税込)
商品の詳細をみる

明治維新について語られる人物像の多くは、維新で勝った側の都合に沿って書かれてきた物語に依拠しており、公教育の教科書に至るまで、その影響が色濃く残っています。

本企画では「幕末・維新を動かした真の主役たち」に光を当て、音声を中心に、記事や動画などもまじえて配信していきます。

彼らがどのように生き、何を考え、どう行動したのか。そして、維新後に新政府は彼らをどう扱ったのか。人物の軌跡を丁寧にたどることで、従来のイメージとは異なる真実の明治維新」をお伝えします。

ログインしてコンテンツをお楽しみください
会員登録済みの方は商品を購入してお楽しみください。
会員登録がまだの方は会員登録後に商品をご購入ください。