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 楽しみにしていたはずの子育てなのに、なぜこんなに大変で、ときに辛いのか。子育てをしている人なら誰しも、そんな気持ちになったことがあるのではないでしょうか?

 今回は「親性脳」(おやせいのう/人間の脳には、子育ての情報に対して顕著に活性化する中枢神経ネットワークが存在し、育児について特徴的に活動する脳のはたらきのこと)などについての研究発表があり、動物行動学、行動神経学を研究している菊水健史教授にインタビュー。イライラしたとき私たちの体には何が起こっているのかを教えてもらいました。

文=松倉和華子

菊水健史さん
麻布大学 獣医学部 教授

鹿児島県生まれ。東京大学農学部獣医学科卒業。獣医学博士。東京大学大学院農学生命科学研究科助手、麻布大学准教授を経て、2009年より現職。専門は動物行動学、行動神経科学、比較認知科学、神経内分泌学。発達期の社会環境と発達や動物の社会認知構造などを研究する。

 

育児が大変な原因は「共同養育」の崩壊

ライター松倉:前回、ママのイライラの社会的原因について鈴木佳代先生(前編「便利な家電が増えても、子育てが大変になっている3つの理由」、後編「タスク過剰のママ、板挟みのパパ。解消法は“育児を特別視しない”こと」)からお話を伺いました。菊水先生は、生物学的な面から子育てからくるイライラ、不機嫌の原因はなんだと思われますか?

菊水健史教授(以下:菊水):生物学的にいうと子育てをしているお母さんは養育中枢が活性化されていてイライラはしないはずなんです。ですから、結論として現代の育児環境が苛立ちの原因と言えます。

ライター松倉:え!生物学的に、お母さんは子育てでイライラしないんですか?

菊水:そもそも人というのは本来、「共同養育」をするように進化を遂げてきた生き物なんです。ここで言う「共同養育」とは、子どもをお母さんお父さんだけが育てるのではなく、祖父母や兄妹、親戚や近所の人々など、周辺のコミュニティが一緒になって子育てをすること。昔はお母さんが子どもを産んで退院してきたときから、おばあちゃんやお姉さん、親戚から血縁関係のない近所の人など複数の女性が代わる代わる赤ちゃんを見たり、育児していました。

 それが今、核家族化が進んで普段から夫以外に頼るところがない。自分が病気で倒れたとしても安心して預けられる場所が近くにないと思うと、気持ちも切羽詰まりますよね。人間が進化の過程で培ってきた共同養育という育児形態が、現代社会では完全に崩壊している。それが大きな原因です。

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 家族ホルモンであるオキシトシンが仇に

エディター平澤:そうなんですね。よく「産後はホルモンバランスが崩れて精神的に不安定になる」と聞きますが、それが原因ではないんですね?

菊水:確かにホルモンは女性に精神面に大きく関係します。例えば、子どもを産んでも周囲のサポートが得られず、ストレスや不安を感じながら子育てしている人はコルチゾールという物質が分泌され、より不安やイライラが誘発されます。しかし、コルチゾールは共同養育が確立した環境があればほとんど出ません。母親が安心して育児ができる環境であれば、むしろ養育中枢が活性化され、子育てに喜びを感じやすくなるはずなのです。

 また、オキシトシンというホルモンも育児に大きく関わっており、産後に我が子やパートナーへの愛情を深め、家族の絆を強くする効果をもたらします。しかし、ストレスを感じる環境ではホルモン分泌が安定せず、オキシトシンの分泌にも制御がかかってしまうんです。

エディター平澤:つまり、ホルモンバランスを悪くしている原因が現代の育児環境にあるということなんですね。

敵と見做されたパートナーには攻撃的に

ライター松倉:ママたちへのアンケートで「産後イライラを感じる対象」の1位が「夫」という結果が出ているのですが、これはなぜなんでしょう?

菊水:オキシトシンはそもそも、授乳や赤ちゃんとの触れ合いによって脳内で分泌され、赤ちゃんへの愛情を深め、家族と寄り添うよう作用するものです。しかし、「仲間ではない個体が赤ちゃんに近付くと普段より攻撃的にさせる」という作用も持っています。

 そのため、核家族の中で共同養育してくれるメンバーは夫しかいないのに、その夫に安心して子どもを預けられるほどの育児スキルがないと思うと、仲間ではなく敵と認識してしまい、激しいイライラや怒りを感じてしまうのだと思います。

ライター松倉:パパが育児を頑張っても、ママは敵だと思ってしまうんですか?

菊水:いえ、そこで期待に応えるような動きを見せれば敵だとは認識しません。しかし、パパとママではどうしても育児の経験値に差が出ますし、仕事がメインになるパパたちにママと同じレベルの育児を求めるのは難しいですよね。その結果、お母さんのイライラや不機嫌の攻撃対象になってしまうのです。

エディター平澤:なぜ、手伝ってくれるはずの夫にイライラするのかと疑問だったのですが、オキシトシンの影響があったんですね。

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 母親1人で子育てなんて、到底無理な話

ライター松倉:普段から夫と協力しなければと思っていても、つい「私の方が子育てしている」と怒りをぶつけてしまうことがあります。でも人に頼れる環境なら、そんなストレスも減るのでしょうか。

菊水:そうですね、とにかく出産や育児においてお母さんが安心できる環境作りが大事です。本来、お母さんが1人で長時間育児をするなんて耐えられるはずがないんです。

 犬や猿などの子は性成熟したら親元を離れて自立しますが、人間の子どもはとても未熟な状態で生まれ、育児期間もとても長いですよね。子が性成熟するまでの期間は、犬なら10〜12ヶ月くらい、チンパンジーなども5〜6年、しかし人間は10年以上かかります。だから生まれて間もない乳児期の赤ちゃんは、昔なら数時間おきに自然と人々が交代しながら育児をしていた。それが生物学的にみて自然な育児方法なのに、今はママが一人で何時間も付きっきりで子育てをしている。それではストレスや鬱の症状が出てくるのも当然ですよね。

「安心できる環境作り」と「親性脳」がカギ

エディター平澤:現状、パートナーにしか頼れない中で、菊水先生の考える「安心できる環境作り」とは?

菊水:ママが安心して育児できる、そんな環境造りのためにまずパパは家事など、家のことをする。またママに万が一のことがあったときは、パパが1人で子どもの面倒を見られるくらいに育児スキルを磨いておく必要もあると思います。

ライター松倉:パパに育児をやってもらおうとしても「ママがやったほうがスムーズ」などと言われることがあるのですが…。

菊水:人間には「親性脳」というものがあり、育児をするとき脳の特定の部位が活性化することがわかっています。そしてこの「親性脳」は、男女問わず、子どもとの触れ合いやお世話をすることで発達していきます。パパたちも赤ちゃんと触れ合うことで顕著に活性化されるのです。ですから、できる限り育児に参加し「親性脳」を発達させるのも、パパにとってより良い変化をもたらすと思います。

ライター松倉:育児に参加したいパパも増えているといいますし、パパの育児参加は以前より期待できそうですね。

菊水:しかしながら、日中は外で働いていて子どもとの触れ合いも少ない男性に、ママと同等の育児スキルを求めてしまうと負担が大きいですし、パパ側も何をどうすればいいのか分からないと悩んでいることもあると思います。そこはママとしても、状況を理解して歩み寄ることが大切ですね。