星野仙一、野村克也・・・名将たちから学んだこと

『探球論』で取材を続けた僕の半生を振り返る本が10月9日に発売することが決まりました。

 タイトルは『人に学び、人に生かす。』です。

 僕の半生で自信を持って言えることは「人に恵まれた」ということです。そんな出会い、出来事を思い出しながら、主に指導者として学び生かしたことを綴っています。

 今回は毎月、購読いただいているみなさんに先行して『人に学び、人に生かす。』のプロローグの一部を先行で読んでもらえればと思います。

 10月5日には仙台でサイン会もあります。いろいろな本にまつわる企画も用意しているので、楽しんでもらえればうれしいです。

平石洋介・著『人に学び、人に生かす。』(シンクロナスブックス)

プロローグ「衝撃の人」2011年/楽天イーグル選手

 僕の人生は野球とともにある。

 小さな頃からの夢だったプロ野球選手になり、引退後は指導者としてグラウンドに立たせてもらった。大好きなことを今に至るまで続けることができているのは、この上ない幸せだ。その「幸せの土台」は、野球がうまくなりたい、もっと上を目指したいと思う中で出会った多くの人たちによって築いてもらったものだ。

 家族はもちろんのこと、気が合う仲間、切磋琢磨したライバル、怖かった指導者、優しかった監督、そして、どうしても好きになれなかった人まで、僕の野球人生にさまざまな形でかかわってくれたすべての出会いによって僕は今までやってこれた。

 興味深いのは、「野球人生の中で人から学んだ」ことは、野球のみならず、個人、平石洋介という人間の成長をも促してくれるものだった、ということだ。

 ここからは、僕の野球人生を振り返りながら、そこで得た学びについて記していく。

 最初の学びは「見えているものだけを信じてはいけない」

 僕が生きてきた中でも、最も大きなインパクトを残す「東日本大震災」は、プロ7年目、歳を迎える年に起きた。現役選手としては中堅と言える頃。自分が見えているもの、考えていることが徐々に固まっていく時期でもある。

 そんなとき、僕の上司││つまり監督だったのが故・星野仙一さん。

 指導者としての道を作ってくれた恩師とも言える星野さんからの学びは数え切れないが、中でも強烈だったのが「監督としての覚悟」だった。

「宮城県で大きな地震があったらしい」

 人の想いとは、他人が簡単に理解できるほど単純ではない。

 表向きは優しく、あるいは厳しく振る舞っているようでも、本心では真逆の感情を抱えていることもある。

 人に対して、真っ直ぐに、腹を割って向き合うことが大事とされるのは、そうした「見えるもの」だけではわからないことがたくさんあるからだと思っている。

 2011年3月11日。東日本大震災が発生した。

 当時、東北楽天ゴールデンイーグルスの選手だった僕は、兵庫県の明石球場(現・明石トーカロ球場)で千葉ロッテマリーンズと一軍のオープン戦を戦っていた。

 プロ7年目、レギュラーはおろか一軍に定着できていない僕にとって勝負となるシーズン。その開幕まで、あと2週間……。

 7回表が終わる頃だったはずだ。球団スタッフが慌てた様子で言った。

「宮城県で大きな地震があったらしい」

 それほど深刻に受け止めたわけではなかった。

 けれど、8回表が終了した時点で試合が打ち切られ、「とにかく身内の安否確認を急いでくれ」と慌ただしく出された号令に事態の深刻さを予感した。

 そして、ホテルへ戻るバスのテレビに映された現地の光景に僕は絶句した。

 心底、体が震えた。

 遠征のたびに利用している仙台空港が、大袈裟ではなく水没している。宮城県以外の沿岸部でも、よく知った地域が津波によって飲み込まれていた。現実味のない、映画のワンシーンのような映像に、ただ息を呑んだ。「ワンシーン」であってほしかった。

 翌日に控えた横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)とのオープン戦は中止となり、横浜への移動もキャンセルされ、引き続き滞在するホテルで「安否確認」が優先された。

 連絡がついた者、つかない者。繰り返し流される現地の映像に、多くの選手、スタッフが焦っていた。

 僕の家族は無事だった。大阪にいたのだ。僕がプロ野球選手になってからというもの、沖縄・久米島で行われる春季キャンプが始まる2月1日から、オープン戦などで各地を転戦するため仙台にある家には帰れない。まだ子どもが小さかったため、家族は妻の実家がある大阪に帰省していた。

 家族と連絡がついてから、友人や知人にひとり、またひとりと連絡をした。電話はほとんどつながらず、メールでテキストメッセージを送り続けた。返信があるたびに安堵する。

 その繰り返し……。

 どうしても繋がらなかった人に奥玉真大さんがいた。PL学園の6つ年上の先輩だ。社会人野球でプレーしたのち、気仙沼に帰り家業の酒屋を継がれていた。

 気仙沼はとりわけ甚大な被害を受けた地域だった。テレビから流れる衝撃的な映像に触れ、不謹慎にも悟った。「生き残れなかったのだ……」と。

「野球をやっている場合ではない」

 中学、高校と大阪に住んでいた僕は、阪神・淡路大震災を経験している。神戸に親戚が住んでおり、心配もした。それでも「3.11」は強烈だった。

 オープン戦は軒並み中止になり、地震発生から4日後の3月15日には、パ・リーグの開幕が延期されることが発表された。

 僕たちイーグルスは横浜のホテルにしばらく滞在することになる。

 それでも、練習までなくなるわけではない。プロ野球選手は仕事である。しかも、多くの人に支えられる職業だ。自分たちから「野球をすること」を放棄するわけにはいかないのは当然だった。それでも……「野球なんか、やっている場合か?」という思いは日に日に強くなった。

 中堅の選手として、一軍定着を狙う立場として、「勝負の年」「野球にがむしゃらに取り組もう」と考えていた自分はすっかりといなくなっていた。

 実際、選手たちは誰もがそう思っていたと思う。

 選手会の役員をやっていた僕は、毎日の練習になかなか身が入らず、むしろ練習前、練習後と時間の許す限り、選手会長の嶋基宏やキャプテンの鉄平らと話し込むことが日課になっていた。

「自分たちにできることは何か?」
「一刻も早く仙台に戻って、できることをしなければ」

 東北を本拠地とするプロ野球チームの選手として抱く使命感は同じだった。しかし、「帰る」方法がない。

 東北新幹線は復旧のめどが立たず、高速道路や一般道も一部で通行止めになるなど寸断されてしまっている。飛行機で最寄りの場所まで行こうにも、交通手段は限りなく少なく現実的ではない。

 そのもどかしさは「野球どころではない」という思いに拍車をかけた。

 僕や基宏、鉄平らを中心としたホテルでの「話し合い」は、山崎武司さんや山村宏樹さんといったベテランの選手が加わって連日行われた。

「俺たちにできることは何だろう? とりあえず、今は野球をしている場合じゃない」
「1日でも早く仙台に帰るにはどうしたらいいか」

 練習前、練習後。ホテルの会議室や誰かの部屋。その会話は、はっきり言って堂々巡りだったが、じっとしているよりはマシだった。

 こうした思いは、選手だけでなく、球団スタッフとも共有していた。

 とりわけ星野監督の専属マネージャーだった河野亮さんは、選手を気にかけてくれており、ことあるごとに「監督が『何かあったら相談に来い』と言ってくれています」と顔を出してくれた。

「この人とは、無理だ」

 この2011年シーズンは、星野仙一さんがイーグルスの指揮を執った1年目である。

 震災から数日たったある日。

 練習を終えた後だったと思う。僕たちは相変わらずホテルで「何ができるのか」という話し合いを続けていた。そして、監督専属マネージャーの河野さんもまた「監督が、何かあったら相談に……」と、いつもの調子で気を配ってくれていた。

 ただ、少し様子が違ったのが、声を掛けてくる頻度が増えたことだ。これまでとは違う様子を察した武司さんが、「これは監督が『来い』ってことやな」と言った。...