元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩氏が、かつての取材資料や関係者へのインタビューをもとに、伝説のプロレスラー・ジャンボ鶴田の強さと権力に背を向けた人間像に踏み込んだ588頁にもおよぶ大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』。

本連載では、刊行以来大反響を呼んだこの1冊に、新たな取材、証言を盛り込み改めてジャンボ鶴田の人物像に迫る。

今回は鶴田の人間性が垣間見れる。トップの立場を期待されたとき…、他団体からの引き抜きの声がかかった時、鶴田がとった行動はーー。先輩・佐藤昭雄、アントニオ猪木の側近が当時を振り返る。

Index
・馬場から松根新体制に移行!その狭間で鶴田は…
・新日本、UWFから引き抜きの手が…

馬場から松根新体制に移行!その狭間で鶴田は…

 1981年、全日本プロレスに転機が訪れる。同年12月21日に全日本の代表取締役が馬場から日本テレビの元運動部長の松根光雄に交代、ジャイアント馬場は会長になったが、同年の中旬から新体制に向けての準備が始まり、否応なしにジャンボ鶴田もこれに関わることになる。

 5月22日にキャピトル東急ホテル(現在のザ・キャピトルホテル東急)で馬場―松根会談が行われ、ここで松根が日本テレビから社長として出向するという内示があった。さらに6月12日に小林與三次社長以下、日本テレビの重役陣が集まって、資金及び経営面、人間の派遣などでテコ入れするという全日本の再建・改革が話し合われている。

日本プロレス時代はエースと日本テレビ運動部長として親しかった馬場と松根だが

 再建の具体的プランとしては興行日程の検討、レスラーの育成計画、年に2回のゴールデンタイムでの番組企画、ギャラが高い外国人選手の人選などが話し合われたが、重要課題として挙がったのは① 3年かけての馬場引退計画 ② 鶴田のトップ育成 ③第2の鶴田の育成という3点だったという。

 こうした流れの中で、松根及び日本テレビから出向してきた役員は鶴田に「トップでしっかりやっていけるのか」という打診した。このトップという意味はリング上のトップは当然として、外国人選手の招聘、マッチメークなど、すべての面でトップとしてやっていけるかという意味である。ところが鶴田はこの話をアメリカから帰国したばかりの先輩の佐藤昭雄に丸投げした。...