平安貴族列伝 目次
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
​(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
​(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相 
​(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体 
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由 ☜最新回
  
・行賀を襲った悲劇
  ・日本への思いが込められた名前
  ・兄弟のその後

唐で実力をつけた僧・行賀

東大寺 写真提供/倉本一宏

 続けて遣唐使関係の人物を紹介しよう。また僧の話であるが、前に紹介した僧正善珠(ぜんじゅ)とは、随分と趣きが異なる。

 それは行賀(ぎょうが)という僧の物語で、『日本後紀』巻十一の逸文、延暦二十二年(803)三月己未条(8日)である。

大僧都(だいそうず)伝燈大法師位行賀が卒去した。行年七十五歳。俗姓は上毛野(かみつけの)公、大和国広瀬郡の人である。十五歳の年に出家し、二十歳で具足戒(ぐそくかい)を受け、二十五歳の年、入唐留学僧(にっとうるがくそう)となり、唐に三十一年間滞在して、唯識(ゆいしき)・法華(ほっけ)両宗を学んだ。帰国した日に、その学問を試みることとなり、東大寺僧明一(みょういつ)が難しい宗義を問うたところ、はなはだ惑い、解答することができなかった。明一がすぐに罵(ののし)って云ったことには、「日本と唐の両国で生活の費糧を受けながら、学識は浅はかである。どうして朝廷の期待に背き、学問を身につけて帰らなかったのか」と。法師行賀は大いに恥じ、とめどなく涙を流した。これは長らく異郷に住み、ほとんど日本語を忘れたためであった。千里の長途を行く者にとり、一度躓(つまづ)いたところでたいしたことはなく、深林にわずかな枯れ枝があっても影が薄くなることはないものである。行賀に学問がないとすれば、どうして在唐時代に百人もの僧侶が講説(こうせつ)・論義(ろんぎ)を行なう場で第二位の座に着くことができたであろうか。『法華経疏』『弘賛略』『唯識僉議』など四十余巻があるが、これはつまり行賀法師の著作である。また、仏教経典や論疏(ろんそ)五百余巻を書写してもたらした。朝廷はそれにより弘く利益することを喜び、僧綱(そうごう)に任じ、詔を下して門徒三十人を付し、学業を伝えさせることにした。

 延暦22年(803)で数え年75歳というのであるから、天平元年(729)の生まれということになる。上毛野公の出身である。先祖は上野(こうずけ)国(現群馬県)の豪族だったのであろうが、上毛野氏は早い時期から大和国に地盤を有していた。

 天平15年(743)に15歳で出家したというから、今で言うと中学生くらいである。25歳の年に入唐留学僧となったというのは、天平勝宝5年(753)であるから、第十二次遣唐使の際であった。今で言うと大学の学部生か修士の大学院生くらいであろうか。

 先に述べた羽栗翔が遣唐録事として発遣された際のものである。ちなみに、大使が藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使が吉備真備(きびのまきび)と大伴古麻呂(おおとものこまろ)であった。彼らは七五三年正月に長安の大明宮で行なわれた朝貢諸国使節による朝賀に出席し、日本の席次が(当時は日本が朝貢国であると主張していた)新羅(しんら)より下位にあったことを抗議し、席次を交換させた(と古麻呂が帰国後に主張した)。

 なお、一行は11月に4隻で帰路に就いたが、第一船の清河は鑑真(がんじん)を同行させることを拒否し、第二船の古麻呂が鑑真を乗船させた。結局、第一船に乗った清河と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は安南(あんなん/現ベトナム中部)に漂着し、第2船に乗った鑑真は、屋久島・薩摩国を経由して来朝することができた。

 ただし古麻呂は藤原仲麻呂に対抗する橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)と連携して、天平宝字元年(757)に「奈良麻呂の変」で獄死(「杖下に死ぬ」)することとなる。第三船に乗った吉備真備は紀伊国に漂着し、天平宝字8年(764)に恵美押勝(えみのおしかつ/藤原仲麻呂)を倒すこととなる。

 さて、行賀は唐に31年間も滞在し、唯識・法華両宗を学んだ。在唐中、百人の僧が講説・論義を行なう場において、第二位の座に着くほどの実力を付けた。そして『法華経疏』『弘賛略』『唯識僉議』など40余巻を著作し、仏教経典や論疏(註釈書)五百余巻を書写して、帰国時にもたらした。

 航海中に嵐に見舞われると、まず経典類を海に捨て、それでも収まらないと僧を海中に投じるので、これらの書と共に行賀が帰国することができたのは、まことに幸運なことであった。

行賀を襲った悲劇

 ところがその行賀を、思わぬ悲劇が襲うこととなる。帰国した日に学問の試問を受けた行賀は、東大寺僧の明一が問うた難しい宗義について、はなはだ惑ってしまい、解答することができなかったのである。

 明一は行賀を罵って、「日本と唐の両国で生活の費糧を受けながら、学識は浅薄である。どうして朝廷の期待に背き、学問を身につけて帰らなかったのか」と言った。行賀は大いに恥じて、とめどなく涙を流した。

 これだけ読むと、外国留学中に遊び呆けていて、てんで勉強しない馬鹿な国費留学生を思い浮かべるが(私などは具体的な名前まで浮かんでくる)、実は行賀の場合は、そうではない。長らく異郷に住んで、(本場の漢語で)勉学に励んだせいで、ほとんど日本語を忘れたためなのであった。

 他人、特に日本人との交流を避け、暗い僧房で黙々と勉学に励む姿が目に浮かぶ。今でも、長い留学生活の後に帰国して、外国語を話すのは上手いが、日本語が不自由な人は、ときおり見かけるが(そういう人の外国語が本当に上手いのか、私には判断できないのだが)、行賀ははるかに徹底していたのであろう。

 行賀が詰(なじ)られた出来事は、単なる話術の問題で、その能力と関連するものではないのである。現在でも、学問は立派だが、話術がてんで駄目で、講義や講演で何を言っているかわからない学者が大勢いるが(話術は立派だが学問が駄目な奴とか、学問も話術も駄目な連中よりは、はるかに素晴らしいのだが)、行賀も帰国直後で、明一の問いに対応できなかったのであろう。

 しかし、朝廷は行賀を見捨てることはなかった。行賀を僧綱(僧正(そうじょう)・僧都・律師(りっし)からなる僧官)に任じ、詔を下して門徒30人を付けて、学業を伝えさせることにしたのである。最終的には、行賀は僧綱大僧都伝燈大法師位にまで至っている。その学問を正当に評価した、まことに爽やかな気分となる措置である。

 なお、行賀を詰った明一は東大寺の上座(じょうそ)を務める高僧であったが、晩年に妻帯して名声を失ったと伝わる。