平安貴族列伝 目次
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
​(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
​(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相 ☜最新回
  ・大変な「民間の噂」とは

大変な「民間の噂」とは

京都御所御内庭 写真=アフロ

 次は『日本後紀』卷六の逸文で、延暦十六年(797)四月丙子条(21日)である。善珠(ぜんじゅ)という僧の卒伝が載せられている。

僧正(そうじょう)善珠が卒去した。行年七十五歳。皇太子安殿(あて)親王(後の平城(へいぜい)天皇)が善珠の肖像を描き、秋篠寺(あきしのでら)に安置されている。皇太子が病気の時、大般若経(だいはんにゃきょう)を読誦(どくじゅ)して、霊妙な効験(こうげん)をもたらし、抽賞して僧正に任じられた。法師は俗姓(ぞくせい)が安都宿禰(あとのすくね)で、京の人である。民間の噂によれば、「僧正玄昉(げんぼう)は太皇太后(たいこうたいごう)藤原宮子(みやこ)と密通し、善珠法師は実はこれは、その息子である」と云うことだ。善珠は師を求めて研鑽(けんさん)したが、遅鈍(ちどん)で学問を身につけることができなかった。しかし、はじめ唯識論(ゆいしきろん)を読み、反復すること無数にして、ついに三蔵(さんぞう)【経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)のことで、仏教典籍(てんせき)の総称】の奥深い教理(きょうり)を理解し、六宗【三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗】の奥深い教理を理解し、教理や学説に通暁するようになった。「大器晩成」とは、考えるとこのような人のことを言うのであろう。

 さっと読み過ごすと、偉い坊さんがいたものだなあと思うだけであるが、よく読んでみると、大変な「民間の噂(流俗の言)」が記録されている。何とこの善珠は、文武(もんむ)天皇の夫人(ぶにん)で首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)の生母であった藤原宮子と僧玄昉との密通によって生まれたというのである。

写真を拡大 藤原氏略系図(部分)
倉本一宏『藤原氏』(中公新書、二〇一七)より
図版製作/アトリエ・プラン

三十七歳にして母と初対面した聖武天皇

 文武天皇は皇后も立てず、所生の皇子女は公式には首皇子しかいなかった。藤原不比等(ふひと)をはじめとする藤原氏が、大宝元年(701)に生まれた首皇子を全力を挙げて後見(こうけん)しているなか、このような噂を正史(朝廷の公式な歴史書)に載せてしまってもよいものなのだろうか。

 宮子は、首皇子を産んだ後、いわゆる「産後鬱(うつ)」となってしまい、引きこもり状態となってしまっていた。天平9年(737)12月27日にいたって、宮子は遣唐学問僧として渡唐し、数々の医術を習得していた玄昉の治療を受け、治癒したとある。生まれて以来、はじめてその生母と対面した三十七歳の聖武天皇の慶びは、想像に余りある。『続日本紀』はこう語っている。

この日、皇太夫人藤原氏(宮子)は、皇后宮に赴いて、僧正玄昉法師を見た。天皇もまた、皇后宮に行された。皇太夫人は、幽憂(ゆうゆう)に沈んで、久しく人事を廃していた為に、天皇を生誕されてから、一度も会うことはなかった。法師は一たび看て、慧然(けいぜん)として開晤(かいご・正常な状態に戻すこと)した。ここに至って、たまたま天皇と会見することができた。天下で、慶(よろこ)び賀(ことほ)がない者はなかった。そこで法師に絁(あしぎぬ)一千匹、綿一千屯、糸一千絇、布一千端を施した。また、中宮職(ちゅうぐうしき)の官人六人に位を賜わったことは、各々差が有った。亮(すけ)従五位下下道(しもつみち)朝臣真備(まきび)に従五位上を授けた。少進(しょうしん)外従五位下阿倍(あべ)朝臣虫麻呂(むしまろ)に従五位下。外従五位下文(ふみ)忌寸馬養(うまかい)に外従五位上。

 この年、いわゆる藤原四子が疫病(天然痘)によってすべて死去し、橘諸兄政権が誕生していた。そのブレインとなったのが、ここにも見える下道(後に吉備)真備と、玄昉という、共に唐で勉学に励んだ二人である。8月26日には、玄昉は僧正に上っている。

 ここで玄昉が宮子を「見た」というのは、もちろん、看病、治療したという意味なのであるが、古代においては、男女が直接に姿を見るというのは、性的な意味を持つこともある。そういった誤解(曲解)と、すぐに精神的な病が癒えたことの不可思議さが相まって、2人の密通という噂が流れたのであろう。

 2人の密通を語る史料は、他にも後世の『扶桑略記(ふそうりゃっき)』や『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』にも見えるが、平安初期の『日本霊異記(にほんりょういき)』には、善珠の母は跡(阿刀)氏としている。

 また、後の称徳(しょうとく)天皇(聖武天皇と光明子(こうみょうし)との間に生まれた女帝)と道鏡(どうきょう)との関係(これも単なる噂に過ぎないのだが)のイメージが重なって、このような噂が伝わってしまったのであろう。

 それにしても、「遅鈍で学問を身につけることができなかった」うえに、こんな噂まで語られていた善珠が、よくも研鑽を積んで立派な学問を修めることができたものよと、1200年の時を超えて、喝采を贈りたい。

 「大器晩成」というのは、私も人生の大きな目標なのであるが、私の場合は、いまだに道筋も見えない。

写真を拡大 藤原氏略系図
倉本一宏『藤原氏』(中公新書、二〇一七)より
図版製作/アトリエ・プラン