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出版社:日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)

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平安貴族列伝 目次
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
​(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情 ☜最新回
  ・藤原氏の「嫡子の嫡子の嫡子」
  ・父や弟の失脚にも咎められず
  ・桓武天皇との意外なつながり

藤原氏の「嫡子の嫡子の嫡子」

平安神宮の太極殿 写真=アフロ

 まずは『続日本紀』の次に編纂された『日本後紀(にほんこうき)』の、延暦(えんりゃく)十五年(796)七月乙巳条(16日)から見てみよう。亡くなったのは、藤原継縄(つぐただ)いう人物である。

右大臣正二位兼行皇太子傅(こうたいしふ)中衛大将(ちゅうえたいしょう)藤原朝臣継縄が薨去(こうきょ)した。使を遣わして葬儀の監護にあたらせ、必要とする葬具を官から支給し、詔(みことのり)して従一位を贈った。継縄は右大臣従一位豊成(とよなり)の第二子で、天平宝字(てんぴょうほうじ)の末に従五位下を授けられ、信濃守(しなののかみ)に任じられた。天平神護(てんぴょうじんご)の初めに従五位上に叙され、次いで従四位下を授けられ、参議(さんぎ)に任じられた。宝亀(ほうき)二年には正四位上に叙され、十一月に従三位を授けられ、大蔵卿(おおくらきょう)、左兵衛督(さひょうえのかみ)を歴任し、急に中納言(ちゅうなごん)に任じられた。天応(てんおう)元年に正三位を授けられた。延暦(えんりゃく)二年に大納言(だいなごん)に転任した。延暦五年に従二位に叙され、中衛大将を兼任した。延暦九年に右大臣(うだいじん)に任じられ、正二位を授けられた。右大臣に在任すること七年。薨去した時は七十歳。継縄は文武(ぶんぶ)の官を歴任して、朝臣(ちょうしん)の首座(しゅざ)の重職に就き、曹司(ぞうし:役所)に詰める一方で、朝座(ちょうざ)で政務に従事した。謙(へりくだ)り慎み深い態度で自制し、政績(せいせき)ありとの評判はなく、才識(さいしき)も無かったが、世の批判を受けることがなかった。

 これだけ読むと、いかにも平凡な名門貴族が出世して大臣の座に上りつめ、長寿を全うして他界したかのように考えられる。

 しかしながら、なかなかそう単純な話ではない。継縄は藤原氏の嫡流である南家の出身である。不比等(ふひと)の嫡子であった武智麻呂(むちまろ)長子の豊成(とよなり)の第二子ではあるが、豊成の長子である武良自(むらじ)は丹後守(たんごのかみ)で終わっているから、早世した、あるいは出家したものと思われる(良因(りょういん)という名が伝わる)。つまりその時点で継縄は、藤原氏の嫡子の嫡子の嫡子ということで、輝かしい権力の座が約束されていたのである。

写真を拡大 藤原氏略系図(部分)
倉本一宏『藤原氏』(中公新書、二〇一七)より
図版製作/アトリエ・プラン

父や弟の失脚にも咎められず

 しかし、豊成は右大臣に上って政権首班ではあったが、同母弟である仲麻呂(なかまろ)が光明(こうみょう)皇太后と組んで権力を握っていて、その権力は弱体化していた。しかも、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に連坐して、大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)に左降されてしまった(ただし、病と称して難波(なにわ)に引き籠った)。

 弟である権臣の仲麻呂暗殺を含む謀反の計画を知りながら、最高責任者として奏上を行なわず、奈良麻呂一味の尋問にも手心を加えていたという理由である。三男の乙縄(おとなわ)も日向員外掾(ひゅうがのいんがいのじょう)に降された(倉本一宏『奈良朝の政変劇』)。この時点でなぜ、継縄が何の咎めもなかったのかは不明である。

 後に豊成は、天平宝字8年(764)に仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の乱の最中に右大臣に復帰した。しかし豊成には、称徳(しょうとく)女帝(と道鏡(どうきょう))政権下で積極的に政事に関与する意欲もなく、2年後の天平神護二年(766)に死去している。

 継縄は天平宝字7年(763)に叙爵され、仲麻呂の乱の後、信濃守や越前守に任じられた。天平神護2年に豊成が死去すると、継縄は7月に参議に任じられた。南家の嫡流としての議政官補充なのであろう。

 その後、宝亀11年(780)二月に中納言に昇任したが、3月28日、陸奥(むつ)国で伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が勃発した。律令政府はすぐさま、征討軍を編制し、継縄を征東大使(せいとうたいし)、大伴益立(ましたて)・紀古佐美(こさみ)を副使(ふくし)に任じた。

 華々しく編制された征討軍であったが、大使の継縄は結局、下向することはなかった。また、陸奥に進発した副使の益立も、5月8日に至ってようやく奏上をおこない、「且つは兵粮(ひょうろう)を準備し、且つは賊の様子を伺い、今月下旬を期して国府に進み入り、その後、機を見て乱れに乗じ、恭(つつし)んで天誅(てんちゅう)をおこなおうと思います」と言上してきた。光仁(こうにん)天皇がこれに怒ったのは、言うまでもない(倉本一宏『内戦の日本古代史』)。

桓武天皇との意外なつながり

「蝦夷」の征討には何の役にも立たなかった継縄であったが、桓武(かんむ)天皇の延暦2年(783)7月には、大納言に昇任した。

 実は継縄の昇進には、裏の事情があったのである。継縄の妻百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)は百済王氏の人で、百済王義慈王の末裔である。そのためもあろうか、同じく百済の武寧王の末裔を称する和(やまと)(高野(たかのの))新笠(にいがさ)を生母に持つ桓武天皇からの個人的信頼が厚かった。桓武が継縄の邸に訪れることもしばしばであり、その際に継縄が百済王氏一族を率いて百済楽を演奏させたこともあった。

 そしてあろうことか、明信は桓武の寵愛(ちょうあい)を受けるという「内助の功」を発揮した。このことは、明信が(たぶん)継縄との間に産んだ乙叡の薨伝に記されている。継縄は延暦九年(790)に右大臣に任じられ、太政官首班の座に立つが、こういった背景があったのである(倉本一宏『藤原氏』)。

 そして延暦15年、継縄は死去した。最初に掲げた薨伝は、その時のものである。

 それに先立つ延暦13年(794)10月、新都への遷都が行なわれ、11月に平安京と名付けられた。遷都にともなう任官によって、藤原北家の内麻呂(うちまろ)が参議に任じられた。この内麻呂の妻である百済永継(くだらのながつぐ)も、女嬬(めのわらわ)として桓武の寵愛を受けていた。内麻呂と永継の間に生まれたのが冬嗣(ふゆつぐ)、摂関家の祖となる人物である。

写真を拡大 藤原氏略系図
倉本一宏『藤原氏』(中公新書、二〇一七)より
図版製作/アトリエ・プラン