2026年2月、イタリアで開幕するミラノ・コルティナオリンピック。
冬季オリンピックが開催されるたびに、日本でも花形競技の一つとして存在感を高めてきたフィギュアスケート。
日本人が世界のトップで戦うのが当たり前になっている現在、そこに至るまでには、長い年月にわたる、多くの人々の努力があった——
日本人がフィギュアスケート競技で初めて出場した1932年レークプラシッド大会から2022年北京大会までを振り返るとともに、選手たちを支えたプロフェッショナルの取材をまとめた電子書籍『日本のフィギュアスケート史 オリンピックを中心に辿る100年』(松原孝臣著/日本ビジネスプレス刊)が2026年1月20日(火)に発売。
今回はその中から、スケート界に革命を起こしたブレードを製造に携わる「山一ハガネ」を紹介します。
【ブレード製造 山一ハガネ】スケート界に革命を起こしたブレード(後編)
全日本選手権、男子シングルの約半数が使用
2024年12月に行われたフィギュアスケートの全日本選手権。男子は30名が出場したが、そのうち実に16名が履いていたのは、日本製のブレード「YS BLADES」であった。その中には優勝した鍵山優真をはじめ、友野一希、三浦佳生ら国内外で活躍を続けるスケーターも含まれる。
男子に限らない。4組が出場したペアでも、優勝した三浦璃来/木原龍一、2位の長岡柚奈/森口澄士のうち森口、3位の清水咲衣/本田ルーカス剛史のうち本田が使用し、女子でも複数名が用いていた。
それは象徴的な出来事だった。
使用する道具が少ないフィギュアスケートにあって、重要なのは靴であり、靴底につけられた「ブレード」と呼ばれる金具だ。スケーティング、ジャンプ、スピン……氷と直に接するブレードは、あらゆる要素において重要な部分であり、選手はブレードの微妙な違いを感じ取り、それが滑りに影響する。
そのシェアは長らくの間、海外のごく限られたメーカーが独占的に占めてきた。参入の余地などないかのような様相にあった。そこに風穴を開けたことを、使用者の数が示していた。しかも手がけたのは、フィギュアスケートとまったく縁のない企業であることも、興味深い。
なぜブレードの製造を始めたのか、どのようにしてシェアを広げてきたのか。
当の企業、山一ハガネを訪ねた。
道具に選手が合わせなければいけないことへの疑問
愛知県名古屋駅から列車に乗り十数分。南大高駅を降りて1キロ強の道のりを進んだ先に、大型トラックの出入りできる広々とした門がある。その向こうにはオフィス棟や工場が並んでいる。
山一ハガネである。強度や硬さなど特殊な性質を持つさまざまな種類の特殊鋼を販売するほか、加工や熱処理なども行っている。
フィギュアスケートとのかかわりはなかった。同社がブレードの開発・製作へと足を踏み入れたきっかけは、バンクーバーオリンピックに出場するなど日本代表として活躍した小塚崇彦との出会いにあった。
小塚は、ブレードにいくつもの問題があることが気になっていた。一つは耐久性の低さ。よりブレードに負荷がかかる男子の上位選手の場合、1、2カ月程度しかもたないと言われている。しかも練習中ならともかく、国内外の大会で、ブレードの破損により試合の棄権をよぎなくされるケースがいくつもあった。まさに演技直前に壊れて棄権した選手もいた。
また、ブレードは三つのパーツを溶接してできているが、同じメーカーの同じラインナップの製品でも溶接位置が微妙に異なることは珍しくなかった。同じものであるはずなのに滑り心地が変わるため、「道具に選手が合わせなければいけない」状況があった。
それらに疑問を感じ、小塚は「国内でつくれないか」と考えた。そして山一ハガネの高い技術力を知り、つてをたどり相談するに至った。
山一ハガネはそれを引き受け、2013年、開発がスタートした。
溶接ではなく大きな塊から削り出す
ただ、フィギュアスケートは無縁の世界だったため、見よう見まねでデザインするところから始まり、既製品を分析し、製作にとりかかった。
そこで気づいたことがあった。ブレードは高価であるにもかかわらず、材料が安価なものであること。それが耐久性にもかかわっていたが、耐久性に欠ける要因はそのほかにもあった。スタートのときから今日まで開発に取り組んできた山一ハガネの石川貴規は言う。
「ブレードのベースの材質はとても柔らかいものでした。でも硬くしているパーツもある。柔らかいものと硬いものがくっついているので曲がってしまうんです」
解決策として、まずは耐久性の高い特殊鋼を素材として使うことを決めた。
パーツを溶接して作る従来の手法による品質のばらつきへの答えも導き出した。それは大きな塊から削り出してブレードにする手法だった。そうすれば、ブレード全体が一つのパーツとなり、部品を溶接してつなぎわせる必要はなくなる。いくつ作っても、品質は一定に保つことが可能となる。
できあがったものを小塚が試して感触などをフィードバック。それを受けて、修正する作業が続いた。さらに無良崇人が2015年に使用を開始し、その作業にかかわるようになった。
「KOZUKA BLADES」そして「YS BLADES」へ
さらに使用するスケーターが増える中、2018年4月24日、山一ハガネは記者発表会を開催、「KOZUKA BLADES」として世に送り出すことを発表するに至った。
そのとき展示されたブレードは、11.5キログラムの塊から削り出された、わずか271グラムのブレード。ブレード自体に靭性(粘り)があり、ジャンプの着氷時などの衝撃の吸収性を向上させ、身体への負担の軽減を図るなど工夫が施されていることが伝えられた。
耐久性については、「従来のブレードは男子なら1、2カ月、女子は8、9カ月で交換になるのに対し、16カ月はもつ」と出席した小塚が説明した。
2021年10月には、「YS BLADES」を発表。
「『KOZUKA BLADES』は、小塚さんに合った仕様になっていることから、『ちょっと合わない』という声も選手の方々からけっこう出ていました。そこで、より多くの選手に使っていただけるよう、標準的なモデルをつくりました」(石川)
「KOZUKA BLADES」は1種類であったが、従来のメーカーは多数のラインナップをそろえて選手がセレクトできるようにしていることを考え、まずは「翔」と「舞」の2種類を発売。その後もラインナップを増やし、現在はアイスダンス用1種類を含め、計7種類を数える。
その「YS BLADES」は、発売されて間もなく、大きな注目を集めることになった。
「オリンピックでメダルを獲りたいね」
2021年は、オリンピックシーズンであり、翌年2月に北京オリンピックを控えていた。大会には、「YS BLADES」を履いた3人の選手が出場した。宇野昌磨、ペアの三浦璃来/木原龍一だ。
3人は団体戦のメンバーとして銅メダル(のちに銀メダルに繰り上がった)を獲得する。
個人戦でも宇野は銅メダルで表彰台に上がり、三浦/木原はペアでは日本史上初の入賞となる7位になったのである。翌月の世界選手権では宇野が金メダル、三浦/木原が日本ペアでは史上最高の銀メダルに輝いているが、オリンピックでの活躍により、彼らを支えた道具として、「YS BLADES」はテレビや新聞などで取り上げられた。
石川はこう振り返る。
「小塚さんと開発を始めたときから、『オリンピックでメダルを獲りたいね』という話はありました。オリンピックで履いてくれて、3名がメダルを獲った。ようやくここまで来れたかなっていう思いはありました」
2013年に開発が始まってから9年。長らく海外のメーカーが独占的なシェアを占めていたブレードの世界にあって、風穴を開けたことを一つ証明した大会であった。それは山一ハガネの、発想を含めた開発力と長年積み重ねた努力の証明でもあった。
石川が感慨深く語るのも自然であった。その言葉には、そこまでにあったさまざまな困難を乗り越えてきたからこその思いが込められていたからだ。
そして石川は、ブレード開発に携わる中で出会った、あるスケーターが今も心に残っているという。(後編に続く)
【ブレード製造 山一ハガネ】スケート界に革命を起こしたブレード(後編)
『日本のフィギュアスケート史 オリンピックを中心に辿る100年』
著者:松原孝臣
出版社:日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)
定価:1650円(税込)
発売日:2026年1月20日
