樋口美穂子 撮影/積紫乃

2026年2月、イタリアで開幕するミラノ・コルティナオリンピック。

冬季オリンピックが開催されるたびに、日本でも花形競技の一つとして存在感を高めてきたフィギュアスケート。

日本人が世界のトップで戦うのが当たり前になっている現在、そこに至るまでには、長い年月にわたる、多くの人々の努力があった——

日本人がフィギュアスケート競技で初めて出場した1932年レークプラシッド大会から2022年北京大会までを振り返るとともに、選手たちを支えたプロフェッショナルの取材をまとめた電子書籍『日本のフィギュアスケート史 オリンピックを中心に辿る100年』(松原孝臣著/日本ビジネスプレス刊)が発売中。

その中にも登場している樋口美穂子コーチの「今」を紹介します。

●フィギュアスケートコーチ・樋口美穂子インタビュー(後編)はこちら

*この記事は2025年10月20日、JBpressで掲載されたものです。

きっかけはアメリカでの指導

 新潟での生活を尋ねると、こう答えた。

「すごく気に入っています。居心地がいいです。あまり人混みが好きじゃないんですけど、どこに行ってもごちゃごちゃしていなくて。それに食べ物がおいしい。スーパーのお刺身で十分おいしいし、野菜もおいしいです」

 フィギュアスケートのコーチ、樋口美穂子は、充実した時間を過ごしているような笑顔で話した。

 今から5カ月前、5月の発表は驚きと反響を呼んだ。名古屋を支部としつつ、新潟のMGC三菱ガス化学アイスアリーナに新たな拠点を設け、樋口が移り指導にあたるというものだった。

 樋口は選手時代も含め、スケート人生を名古屋で過ごしてきた。教える立場になってから、一昨年に独立して「LYSフィギュアスケートクラブ」を立ち上げる前もその後も、厳密には名古屋市以外の愛知県のリンクも使用してきたが、宇野昌磨をはじめ数々のスケーターを指導してきたのは名古屋でのことだった。

 30年をゆうに超える年数を指導者として歩み、基盤も築いてきた地から移るのは大きな決断と言える。

 きっかけは2つあったと言う。

 1つは今春、アメリカで指導にあたったこと。

「突然、ホームページにアメリカのスケート連盟からメールが届きました。強化合宿があるので、そこに講師として来てほしいという内容です」

 何をやればいいのか具体的にはなかったし、オファーの理由もなかったが、樋口は承諾しアメリカに向かった。

「行ってみてもオファーした理由の説明はなかったですね。指導したのはフットワークとジャンプかな。合宿にはたくさんのコーチがいて、ジャンプなら、ルッツはグレイシー・ゴールドが教える、この種類のジャンプは誰誰が教える、という具合でした。その全体をみてほしいと言われました。

 印象的だったのは男女を問わず、ものすごくパワーのある子が多かったことですね。日本の選手よりも全然ある。その分、パワーで跳んでいる子が多くて、パワーもいかされていないように感じて、パワーで跳ばないように、ということはよく言ったかな。能力のある子もたくさんいました。アメリカだけでなくカナダの選手やコーチも来ていましたけど、ノービスくらいの子とかすごく上手でした」

 その時間は刺激にもなった。

「コーチたちが『自分だったらこうやって教える』とかディスカッションを相当やっていて、あ、こっちからモーションをかけるのもいいのかな、とか勉強になりましたね」

 何よりも名古屋しか知らなかったことに気づき、新たな世界を知ったような刺激があったという。

視野が狭かったのに気づいた

 もう1つのきっかけは、LYSのコーチとなった田村岳斗との会話にあった。田村は長野オリンピックの日本代表で、引退後はプロスケータ―やコーチなどで活動していた。

「岳斗先生から、コーチ業をまた始めようかな、みたいな話を聞いていて、どういう流れだっただろう、新しいところで、みたいな話になって。アメリカ合宿のすぐあとだったと思います」

 その2つをきっかけとして行動は始まった。そして選んだのが新潟だった。

「ほかにも候補地はあったんですけど、MGC三菱ガス化学アイスアリーナは24時間貸し切りがとれるというのと、新潟の連盟の方も協力的だったので決めました。動き始めて2週間くらいで全部決まりました」

名古屋で教えていた小中学生の選手4名もそろって新潟へ移った。

「話したときは、びっくりしていましたけれどついてきてくれたんです。ありがたいなと思います。教えている内容はそんなに変わらないですね。ただリンクでけっこう滑れているという点は感じます」

 名古屋では練習のたびにリンクを借りる手間が相応にかかり、クラブも多いため簡単にスケジュールは組めなかった。その違いも大きかっただろう。

 それでも大きな決断ではあるが、樋口は言う。

「ためらいはなかったですね。全然なかった。挑戦したいという気持ちが強かったです。アメリカに行って、今まで視野が狭かったのに気づいたというか、広がったというか、そう感じたのと、あとは名古屋にずっといて楽しちゃっていたなという気持ちもありました」

 挑戦の背景には、スケートを普及させたいという思いもあった。

新潟でもできるんじゃないか

「新潟のスケート人口をもっと増やしたいですね。こちらの人に聞くと、新潟県はスポーツに力を入れているけれど、サッカーやバスケットボールなんだそうですね。一方でウインタースポーツは少し苦しんでいる。今はクラブの子しか教えていないけれど、新潟の子たちも教えて、スケートを普及させたいです」

 そしてこう続ける。

「岳斗先生は、選手のときは仙台で長久保(裕)先生に教わっていたじゃないですか。長久保先生が指導者として仙台に移ってから、岳斗先生だけじゃなく、たくさんスケーターが育ちました」

 長久保氏は千葉県新松戸で指導を行っていたが1988年、仙台市のリンクに移り、数多くのスケーターを育てた。1988年の長野オリンピックには田村をはじめ本田武史、荒川静香、荒井万里絵と4名の教え子が出場している。また鈴木明子や本郷理華の指導でも知られている。フィギュアスケートの普及にも大きく寄与した。

「仙台がそうだったように、新潟でもできるんじゃないか、という思いもあります。もっと盛んになれば、リンクがもう1つできるかもしれないですしね」

 新潟そして国内にとどまらず、海外にも視野を向ける。アメリカ合宿で教えた選手のうち2人が新潟を訪れて指導を受けたという。

「そのほか、合宿と関係なく、オーストラリアからも1人来ました。所属コーチ以外は出入りできないとか制限がけっこうあるリンクが少なくない中で、ここはよその選手も自由に入れるし、スケートを広げていくにはいい環境ですね」

 そして笑う。

「名古屋から出たことがなかったから、名古屋の印象が強いじゃないですか。だからみんなにびっくりされるんですけど、別にどこに行っても私は私だから。成功とか失敗とか考えるのではなく、まずはやってみようという感じかな」

 フィギュアスケートへの変わらぬ情熱とともに幕を開けた新たな地でのスタートにも、挑戦を挑戦と感じさせない軽やかさがあった。(後編に続く)

●フィギュアスケートコーチ・樋口美穂子インタビュー(後編)はこちら

 

 

『日本のフィギュアスケート史 オリンピックを中心に辿る100年』
著者:松原孝臣
出版社:日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)
定価:1650円(税込)
発売日:2026年1月20日

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