群雄割拠!当時の日本プロレス界事情

 ジャンボ鶴田がプロレス入りした1972年当時のプロレス界は日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの4団体時代に突入して熾烈な興行合戦が繰り広げられていた。

 栄華を誇っていた老舗の日プロは、71年暮れに会社の改革に動いていたアントニオ猪木を「会社乗っ取りのクーデターを企てた」として追放したあたりから翳りが見え始め、さらにこの72年夏にジャイアント馬場が去ったことで大きなダメージを受けた。

 馬場をエースにした日本テレビ、猪木をエースにしたNET(現テレビ朝日)の2局放映で我が世の春を謳っていた日プロだったが「猪木がいなくなったから」という理由で72年4月3日の放映から「後発のNETには馬場を放映させない」という日プロとの約束を破って馬場をNETの『ワールド・プロレスリング』に登場させた。

 これに激怒した日本テレビは5月12日放映を最後に、18年間続いた日プロ中継打ち切りを決定。猪木、馬場という2大エースを相次いで失い、さらに日本テレビも失った日プロにとって、鶴田獲得は起死回生策だったが、すでに経営難に陥っていたのである。

 日プロを追われた猪木は72年3月6日に新日本を旗揚げしたものの、テレビ局がバックに付いていないために赤字続きという状態だったし、社長の吉原功が早稲田大学レスリング部出身の国際に関しては、鶴田獲得レースに参加していなかったという説と、最後まで熱心にコンタクトを取っていたという説の2つがあり、どちらが本当かはわからない。

 当時、国際はTBSテレビが付いていて、経営的には安定していたが、1年4ヵ月後の74年2月にはエースのストロング小林が退団し、TBSの中継が打ち切りになる。そこからイバラの道を進むことになり、81年夏には崩壊してしまった。

 そうした流れを考えると、結果論になってしまうが、10月22日に旗揚げしたばかりだったとはいえ、鶴田が全日本を選択したのは賢明だった。

 全日本は当時の日本テレビの小林與三次社長が「プロレス中継は初代社長・正力松太郎氏の遺産だから続けなきければいけない。そのためには力道山の本流を受け継ぐ馬場でなくてはいけない」と、全面バックアップを約束して直々に馬場を口説いで誕生しただけに、経営的に最も安定したプロレス団体だったのだ。

全日本を就職先に選んだ理由

「農家の次男の俺が、この大きな身体を活かして生活していく職業はプロレスしかない」と最初からプロレス=就職と考えていた鶴田にとって、所属選手が馬場、サンダー杉山、マシオ駒、大熊元司、サムソン・クツワダ、佐藤昭雄、百田光雄、藤井誠之の8選手しかいなかったというのも全日本を選択した理由のひとつ。...