街を歩いていると、不意に耳に入ってくる言葉がある。誰かの会話、カフェのBGM、看板の文字。芸人・鈴木ジェロニモが、日常の中で出会った“ちょっと気になる言葉”に耳をすませて、思考を巡らせます。(連載の詳細はこちら)

『ない概論』というライブがあった。朝9:30集合、10:00開演。芸人にとって、というか私にとっては早すぎる。こういう日の前夜はどうしてか気持ちが勇む。じゃあいいよもっと早く起きてモーニング食べてやるよ! と勢い付いて、必要より1時間早くアラームをセット。翌朝の態度は2種類想定される。一つはアラームに泣きながら起きて、何でこんなに早いんだ、ていうかまだ寝れんじゃん俺は寝るよ、と二度寝。もう一つは勇んだ自分そのままに、何だよ余裕だよ起きてやるよモーニング食べてやるよ! と起床。その日は後者だった。
会場に向かう途中にロイヤルホストがある。俺はロイホだよふざけんじゃねーぞ、と侍のように入店。お好きなお席へどうぞと案内され、一番好きだと思った窓際の席へ。日曜の朝。特別ね、とこっそり教えてくれた屋根裏のような晴天。はい俺の勝ちー、という満足感が全身に行き渡る。
落ち着いて目を開けると私の席から見て店内中央側のボックス席に、4人が座っている。おじいさん、おばあさん、お孫さんっぽい少年2人、の4人。みんな上品だなあ、と認識してすぐ、彼らは食事を終えて立ち上がる。少年2人はタターっと駆け出し店外へ。おじいさんがそれを微笑ましく追う。おばあさんがレジへ向かい、会計。これすごく美味しかった、などと店員さんとにこにこ話している。
4人の動きから視線を手前に戻す。すると、ん。彼らが座っていた席に、何かがある。紙のラケット? 手のひらサイズの分厚い光沢紙が卓球のラケットっぽく切り抜かれていて、球みたいなものが糸で繋がれている。おもちゃかな、と直感的に思う。そして同時に、あれもしかして、とざわざわが湧いてくる。
さっきの少年の忘れ物だとしたら。でもあまりにも簡易な作りでほとんど紙と同じだから、テーブルのナプキンと一緒にお店で処分していただいて〜的なことなのか。いやだとしてもしかして……。逡巡を経た私は、よしとりあえず渡してみよう、と思い立つ。
紙のラケットを拾ってレジでにこにこ話しているおばあさんの方へ、のしのし近づく。すると入り口が、がぱっと開く。さっきの少年だ。戻ってきて、何か探している様子。もしかして、と勘づいて紙ラケットを差し出す。
「あのこれ、忘れ物……」。ここで言葉が自ら頭の中で、このまま行っていいんですか、と指示を仰いでくる。うん、確かに、待てよ。忘れ物ですか、と言いそうになっていた。子供に見える相手であっても初対面だから敬語、と判断した訳だが、果たして本当にそうだろうか。敬語で話されたらむしろ不安で、タメ口の方がそれを解消できるのではないか。咄嗟の判断で私は、タメ口を選択する。一時停止された現実が再び再生。「……かなあ?」。私の発言は「忘れ物……かなあ?」と繋がった。間に合った、と操縦席の私が安堵する。
すると少年は目を見開いて驚きつつ、コクン、と小さく頷いた。それは了承にぎりぎり含まれていそうだった。紙ラケットを渡す。少年はそれを恐る恐る受け取り、再びタターっと走り去る。おばあさんがちょうど会計を終える。私と少年の邂逅は彼女の視界には入っていないようで、何事もなかったみたいに優雅にドアを開け、退店。自分の座席にのそのそ戻る私にだけ、全てが見えていた。
もしかすると少年は帰りの車の中で「体のでかい不気味な男に忘れ物を拾ってもらった」と話すかもしれない。しかしおばあさんたちには私が見えていないから「そんな人いなかった、あなたが持っているということは自分で持って帰って来たんじゃない?」と笑われる。でも見たんだよ、という少年の声は彼の内側に響く。体のでかい不気味な男。恐ろしいのか優しいのか分からない、そしてそのどちらでもある、不可視の存在。少年よ、私をジブリの何かだと思ってくれて一向に構わない。
そういう話を友人にする。すると彼は「トイ・ストーリーみたい」と返す。なるほど、と思う。紙ラケットつまりおもちゃ側の視点に立ってみよう。持ち主の少年に忘れ去られて寂しがっていたところに不気味な巨体が現れ、うわ握りつぶされる終わった、と絶望。しかし巨体はおもちゃを持ち上げ、たどたどしく少年に手渡す。嬉しいのか恥ずかしいのか分からない巨体の後ろ姿。おばあさんたちと問答する少年の腕の中、車の窓からロイヤルホストの窓めがけて、紙ラケットが小さく揺れる。動くおもちゃと、いない人間。不可視同士の明るい別れを、もちろん誰も見ていない。
私の日々は私にとって名作である。
▼以下、写真2枚+キャプション▼
【次回更新は2026年6月13日(土)正午予定】
プロダクション人力舎所属。R-1グランプリ2023、ABCお笑いグランプリ2024で準決勝進出。第4回・第5回笹井宏之賞、第65回短歌研究新人賞で最終選考。第1回粘菌歌会賞を受賞。YouTubeに投稿した「説明」の動画が注目され、2024年に初著書『水道水の味を説明する』(ナナロク社)を刊行。文芸誌でエッセイ掲載、ラジオ番組ナビゲーター、舞台出演など、多岐にわたり活躍。>>詳細

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