正史に載せられた「薨卒伝(こうそつでん)」と呼ばれる個人の伝記。そこには出世だけではない、官人たちの知られざる人生があった。倉本一宏氏が個性的かつ面白い貴族を紹介する新刊『続 平安貴族列伝』より、内容の一部を公開いたします。
紀伊国の豪族の出身
滋野(しげの)氏の官人を扱うのは、はじめてであろうか。『日本文徳天皇実録』巻四の仁寿(にんじゅ)二年(八五二)二月乙巳条(八日)は、次のような滋野貞主(さだぬし)の卒伝を載せている。
大同(だいどう)二年、文章生試に及第した。弘仁(こうにん)二年に少内記に任じられ、弘仁六年に大内記に転任した。弘仁十一年に外従五位下を授けられ、因幡介を兼任した。弘仁十二年に従五位下を授けられ、図書頭に遷任した。因幡介は元のとおりであった。弘仁十四年、仁明(にんみょう)天皇が始め東宮であった日、東宮学士に遷任された。因幡介は元のとおりであった。天長(てんちょう)八年、勅して諸儒と共に古今の文書を撰集した。類でもって従った。すべて一千巻も有った。名づけて『秘府略(ひふりゃく)』といった。天長九年、下総守を兼任した。太子が践祚した始め、内蔵頭に拝任された。下総守は元のとおりであった。数箇月して、宮内大輔に遷任された。承和(じょうわ)元年、従四位下を授けられ、相模守を兼任した。承和二年、兵部大輔に遷任された。承和六年、大和守を兼任した。承和七年、大蔵卿に遷任された。大和守は元のとおりであった。承和八年、大和守を停任され、讃岐守を兼任した。承和九年、式部大輔に遷任された。讃岐守は元のとおりであった。その秋、参議に拝任された。承和十一年春、城南宅を喜捨して伽藍とした。慈恩寺と名づけた。貞主は坐禅の余暇に、その間を歴遊した。時の人はこれを慕った。その夏、上表して式部大輔を譲ったが、許されなかった。承和十二年、便宜十四事を陳べた。事が多く、載せない。議はまた、行なわれなかった。嘉祥(かしょう)二年春、尾張守を兼任した。
時に大宰府の官吏は多く良くなく、衰弊は日に甚しかった。貞主が上表して云ったことには、「それ大宰府は、西極の要衝にして、日本国の領袖である。東は長門を関とし、西は新羅に対する防禦としている。それのみならず、九国二島は、郡県が広く遠い。古えより今まで、大宰府を重鎮としている。それ謀事は必ず祖に就く。政を発するのは古語を占う。そこで旧記を検してみると、大唐・高麗・新羅・百済・任那は、ことごとくこの境界に託し、そこで入朝することができる。或いは貢献に事づけ、或いは帰化の心を懐く。諸の蕃国が寄り集まってくると称すべきである。日本国と外国の関門である。これによって、有徳の者を帥や弐とし、才良の者を監や典としている。もしその人がいなければ、弁官や式部省の官人を選び取っている。しかし、この何年以来、絶えて行なっていない。近く飛語を聞いてみると、云ったことには、『大宰府の官人は、或いは目や口を閉じ、時の人を避けているようなものであり、或いは恥を忘れて財を貪り、苛斂誅求の吏となっている。大宰府の官人や国司で、これを悲傷しない者はいない。もしもこの状況を変えなければ、恐れることには臍を噛んでも及ばない』と。私はこの飛語を聞いて、心神が措くことができない。この飛語には信じ拠るところが有るわけではないといっても、臣子の道理として、どうして憂いを覚えないことがあろうか。また、聞いたことには、『大宰少弐従五位下小野(おの)朝臣恒柯(つねえだ)と筑前守従五位下紀(き)朝臣今守(いまもり)は、意見が有って執論している』と。物事を矯正するのに役に立たない。未だ虚実を審かにしておらず、ただ噂に聞いただけである。私は赤誠に勝れておらず、伏して逆鱗に触れる。言詞は切に正直であり、黙止して省みない」と。
その秋、宮内卿となった。嘉祥三年の夏、正四位下を授けられ、相模守を兼任した。仁寿二年の春、毒瘡が唇吻に発した。仁明天皇は詔して医薬を賜った。勅使が路に望むと、道俗の者が見舞いに来ていた。日を追って街巷は道が塞がれていた。子孫に遺戒して云ったことには、「葬儀については、必ず倹薄に行なうように。死去した後は、子孫は斎供するのみとせよ」と。慈恩寺の西書院に卒去した。時に行年六十八歳。時の人は、知り合いも知らない者も、流涕して哀惜しない者はなかった。貞主は天性が慈仁で、語って人を傷つけることを恐れた。進士の輩を推挙して、その能力に随って引き上げた。
長女縄子(じょうし)は、心が穏やかで、立ち居振る舞いは規範に叶っていた。仁明天皇が特に恩寵を加え、本康(もとやす)親王・時子(ときこ)内親王・柔子(じゅうし)内親王を産んだ。次女奥子(おくし)は頗る礼儀作法に叶い、女性の守るべき道徳をよく脩め、文徳天皇の幸寵するところとなり、惟彦(これひこ)親王・濃子(のうし)内親王・勝子(しょうし)内親王を産んだ。時に人が思ったことには、「外孫の皇子を得て、一家が繁昌した。これは貞主の慈仁のおかげである」と。
滋野氏は紀伊国の豪族の出身で、紀直と同祖である。天平勝宝二年(七五〇)に駿河国で黄金が出土した際、当時駿河守であった楢原造東人が勤臣(伊蘇志臣)を賜姓され、さらに延暦十七年(七九八)に滋野宿禰を賜ったのが始まりである(『国史大辞典』による。大塚徳郎氏執筆)。
貞主は、東人の曾孫で、尾張守家訳の子。母は紀氏の人。貞主は身長が六尺二寸(約一八六センチ)もあり、若くから大学に学んで、大同二年(八〇七)、二十三歳で文章生に及第した。早くから詩才が認められ、弘仁五年(八一四)に撰進された勅撰漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』に二首が採録され(三十歳)、弘仁九年(八一八)に撰進された勅撰漢詩集『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』の編纂にも参画している(三十四歳)。また、天長四年(八二七)に撰進された勅撰漢詩集『経国集(けいこくしゅう)』の序を書いている(四十三歳)。ただ、これらは卒伝には載せられていない。天長八年(八三一)に古今の文書を撰集して『秘府略』を作っている(四十七歳)。
貞主のすごいのは、たんに文芸に優れた学者というだけではなく、官僚としても優れた業績を残していることである。弘仁二年(八一一、二十七歳)の少内記を皮切りに、弘仁六年(八一五、三十一歳)に大内記、弘仁八年(八一七、三十三歳)に蔵人に補任され、中央官だけでも、弘仁十二年(八二一、三十七歳)に図書頭、弘仁十四年(八二三、三十九歳)に東宮学士、天長十年(八三三、四十九歳)に内蔵頭、次いで宮内大輔、承和二年(八三五、五十一歳)に兵部大輔、承和五年(八三八、五十四歳)に弾正大弼、承和七年(八四〇、五十六歳)に大蔵卿、承和九年(八四二、五十八歳)に式部大輔、承和十一年(八四四、六十歳)に勘解由長官、嘉祥二年(八四九、六十五歳)に宮内卿と、次々と顕官に任じられ、地方官も兼任している。
ついに承和九年には参議に任じられ、議政官となった。これはその門地からすると、考えられないほどの栄達である。嘉祥二年には大宰府の官人について意見を上奏し、その腐敗を厳しく糺弾している。この長大な意見が卒伝に載せられているのも、朝廷がそれを重視した証であろう。
また、貞主は天性が慈仁で、語って人を傷つけることを恐れた。進士の輩を推挙して、その能力に随って引き上げたというのも、その人柄を偲ばせる。仏教にも深く帰依し、私邸の城南宅を喜捨して伽藍とし、慈恩寺と名づけた。貞主は坐禅の余暇に、その間を歴遊し、時の人はこれを慕ったという。
貞主の死を知ると、その時の人は、知り合いも知らない者も、流涕して哀惜しない者はなかったというのも、その人柄のなせることであろう。
さらには、女(むすめ)を仁明天皇や文徳天皇の後宮に入れ、それぞれ皇子女を産んでいる。貞主に天皇家の外戚になって政権を窺うような野望があったとは思えず、それがかえって歴代の天皇に信頼されたのであろう。二人の女もそれぞれ心が穏やかで立ち居振る舞いが素晴しかったり、礼儀作法に叶い女性の守るべき道徳をよく修めていたりと、貞主の女に相応しい資質を備えていたようである。なお、貞主は長女縄子と『薫物方(たきものほう)』を作っている。
このように理想的な官僚も存在したのであるが、その出世は、出自のせいでせいぜいが参議止まりであった。日本古代官人制は、こういった人を大臣に抜擢するような仕組みになってはいなかったのである。もっとも、後の菅原道真(すがわらのみちざね)の末路を考えると、無理に出世するよりも、貞主のような生き方の方が、はるかに充実した人生に思えてくるのである。やがて日本は、このような参議も出ることのない時代を迎えることになる。
『続 平安貴族列伝』
著者:倉本一宏(歴史学者)
出版社:日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)
定価:1870円(税込)
