秋の気持ちよさを通りこして肌寒さを覚える今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
先日、知人とお茶をしながら近況を話していたところ、その知人が伊藤東凌さんという京都「両足院」の副住職さんの坐禅を受けたというのです。
「坐禅に興味はあるけれど、煩悩と雑念が多すぎて無の境地になれない気がするなー」という想いがすぐに頭をよぎったのですが、知人の話を聞いてみると、面白い坐禅方法でした。
坐禅した人たちに対して伊藤東凌さんが「最近食べたものでおいしかったというものは何ですか?」と質問をする。
みんなは静かに、質問の答えを頭の中でめぐらせる。
続いて、伊藤東凌さんが「気持ちが調うときと、気持ちが乱れるときというのは、どんなときですか?」と聞く。
答えをまた頭の中で考える。
……というように、頭は考えることに集中するのです。
なるほど、ある意味「無」だなと。
伊藤東凌さんもウェルネスメディア『yoi』のインタビュー記事でこのように言っていました。
「無」とは「何も無い」ということでなく、有無、自他、善悪といった相対的な思慮分別を離れた状態です。
「無」に近づくためには、まずは自身のさまざまな感情を受け入れること。「こんなことを思ってはだめだ」とその感情と戦ってしまうのではなく、「自分はこう感じる」という無数の感情の存在を認めたうえで、鈍行列車の車窓を流れゆく景色を眺めるように、感情の変化をただ眺めればよいのです。
「無」に近づくためには、まずは自身のさまざまな感情を受け入れること。「こんなことを思ってはだめだ」とその感情と戦ってしまうのではなく、「自分はこう感じる」という無数の感情の存在を認めたうえで、鈍行列車の車窓を流れゆく景色を眺めるように、感情の変化をただ眺めればよいのです。
常に携帯がそばにあり気忙しい暮らしの中でも、ときどきは自分の感情に集中する時間をもってみようかなと思った出来事でした。