街を歩いていると、不意に耳に入ってくる言葉がある。誰かの会話、カフェのBGM、看板の文字。芸人・鈴木ジェロニモが、日常の中で出会った“ちょっと気になる言葉”に耳をすませて、思考を巡らせます。(連載の詳細はこちら)

みじかく帰省した。どうやら世間がお盆休みっぽいという印象を得て数日後、あれここちょうど帰省できるんじゃね、というタイミングを見つけて連絡する。特に用事はないのですが明日と明後日帰省してもよいですか。「待ってまーす」。スタンプで返される。ありがとうございます、着く時間とか分かったらまた伝えます。
家族とのLINEが敬語になる。理由は、年上だから。Podcastなどではそう話していた。しかしさすがにねえもうそういうのやめようよ分かったからさ、みたいなのも感じる。改めて、家族とのLINEが敬語になる理由について考える。LINEの歴史が家族よりも後に始まっているから、ということが思い当たる。
私と家族の歴史は私が0歳のときから始まった。家族とのコミュニケーションツールは会話。記憶の中の幼い私は敬語を使っていない。そこから小学校くらいにかけて自分、という意識が明瞭になっていく。その過程で段々と、家族というものが、なんか同じ家にいるけど別の身体だし普通に他人じゃね、と思えていく。最寄りの他者。それが私の家族への認識になる。そういう他者への尊重として、敬語が混ざり始める。
「これうちの畑で採れた茄子」。おー、そうなんだ。うん。おいしいです。みたいに、タメ口のパートと敬語のパートがある。帰国子女の人が会話の中で流暢な英語を自然と発することがあるように、ここはタメ口ここは敬語、みたいなものの自然で適切な選択がほぼ無意識のうちに行われる。
そういうコミュニケーションが身体のように、破壊と回復を繰り返す筋組織のように、自分の中では確立された。そのだいぶ後、高校生から大学生くらいにかけて、スマートフォンが普及してLINEが一般的になった。一度確立された家族におけるコミュニケーションの立ち位置を、LINEというメディアにおいて、もう一度形成し直さなければならない。
LINEの、たぶん自分たちくらいの世代に向けて最適化されているであろうユーザー設計に、家族が頑張って適応しようとする。例えば親はLINEにおいては私と同じく始めたての0歳で、しかも私よりも飲み込みが遅い。つまり親よりも私の方が、LINEにおいては振る舞いの上手い上級生っぽくなる。そこでタメ口を使ってしまうと、自分の中での、家族は年上、しっかり者、という安心できる価値観が揺らぐ。だから自分を家族たちより相対的に下へ位置付けられるように、LINEでは家族に対して過剰なまでに敬語を使う。そうなったのだと思う。
Podcast番組『奇奇怪怪』のメンバーシップコンテンツ「街頭ラジオ」に兄が出演した。鈴木亘という名前で美学者をしている。「弟さんとは仲良いんですか」「仲良いとか悪いとかはないですね」「どういうことですか」「お互いを他者として尊重している、というか」。私も概ね同意だった。
▼以下、写真2枚+キャプション▼
...