街を歩いていると、不意に耳に入ってくる言葉がある。誰かの会話、カフェのBGM、看板の文字。芸人・鈴木ジェロニモが、日常の中で出会った“ちょっと気になる言葉”に耳をすませて、思考を巡らせます。

鈴木ジェロニモの「耳の音」#09「恋愛。恋愛と一緒。急がないこと」

 

 表参道に行って髪を切ってもらう。仮に店名をOとする。Oには数年前から通っている。元々は新宿の別の美容室に行っていた。しかし予約を取りそびれてタイミングが合わなかったことがあり、そのとき初めてOに行った。自分の感触も仕上がりの評判もすごく良くて、それ以来毎回Oに行っている。

 Oを知ったきっかけは、新宿時代の美容師同士の会話だった。「カットの技術ならOだね。あそこは日本一上手いと思う」。シャンプーしてもらっている途中、紙で伏せられた視界の向こうから聞こえてきた。芸人同士の会話で「今年のM-1は〇〇がいくと思う。ネタが相当仕上がってる」と話すことがあるように、美容師同士の会話はきっと本当の気持ちに由来するのではないかと思えた。声に出さずに頭の中で反芻して店名Oを覚える。店を出た後に検索する。いつかタイミングが合えば行ってみたい。そうしてあたたまった気持ちが行動に移り、Oで髪を切ってもらってやっぱり本当だったんだと思う。新宿の美容室は私が行かなくなったことによって何かしらの損失を被ってしまったのかもしれないけれど、本当の会話をしてくれてありがとう、やはり名店です、と故郷のように彼らに感謝を向けている。

 数年通ったOで、この日初めて、お笑い芸人であることを打ち明けた。打ち明けた、という表現になるのはそれまで会社員のふりをし続けていたことが原因だ。最初の来店理由が上で述べたような「いつか行ってみたい」の「いつか」としての非日常だったから、それが日常になる想定をしていなかった。何となく、新宿で働いているフレックス勤務の営業職、みたいな設定でカットを受けてしまった。お笑いライブに出ることを「打ち合わせ」とか「人と会う予定」とか言い換えて、スケジュールが夕方以降に多いことを誤魔化しながら会話した。それが数年重なった。芸人であることを伝えたほうがスムーズだしそのほうがいいんだろうけど今までめっちゃ誤魔化しちゃてるしなあ。どうしようかな。ラジオのスタッフさんとそういう話をしていたら「いやいや絶対伝えたほうがいいですよ、美容師さんもそのほうが嬉しいと思います」と教えてくださる。そうか普通にそうですよね。私は私視点の世界の不動を重視してしまってどうされたら相手が嬉しいかを疎かにする。それの最たるものだと思った。

「えー! 早く言ってくださいよ!」。いつもクールな印象だった担当の美容師さんが明るく笑いながら返してくださる。「ライブいつあるんですか? 友達と観に行きます」。その場でスケジュールに書き込んでくださる。なんだか恥ずかしくて嬉しくて、いやー、はー、えー、とか言って顎を引いてにやける。

 髪が軽くなって水が飲みたくなって駅前のコンビニに寄る。南アジアっぽい雰囲気の店員さんが同じく南アジアっぽい雰囲気の店員さんにレジ打ちを教えている。「恋愛。恋愛と一緒。急がないこと」。まじかよ、と思う。実際に交わされた言葉の真偽は確かめようがないけれど私が感じたことは「まじ」である。水を買うとか表参道の美容室に行くとか子供の私が見たらびっくりするだろう。しかしそれでいい。それがいい。私はいつも子供の私をびっくりさせたいだけなのだ。

表参道のチーズケーキとホイップクリームの距離
買った水全部こうなる

【次回更新は6月7日(土)正午予定】

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鈴木ジェロニモ
芸人、歌人

プロダクション人力舎所属。R-1グランプリ2023、ABCお笑いグランプリ2024で準決勝進出。第4回・第5回笹井宏之賞、第65回短歌研究新人賞で最終選考。第1回粘菌歌会賞を受賞。YouTubeに投稿した「説明」の動画が注目され、2024年に初著書『水道水の味を説明する』(ナナロク社)を刊行。文芸誌でエッセイ掲載、ラジオ番組ナビゲーター、舞台出演など、多岐にわたり活躍。>>詳細

 

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