(木崎 伸也:スポーツライター)

 「根性」は多くの日本人に矛盾した感情を引き起こす、不思議なコトバである。

 もし上司や指導者が「困難に屈しない気持ちがあれば何でもできる」と根性論を振りかざしたら、部下や選手は白けてしまうだろう。理不尽な精神論はパワハラになりかねない。間違いなく時代遅れである。

 ところが、自分が実践するのではなく、他の人がやるのを見るとなると話は変わってくる。

 高校野球や高校サッカーでは、いまだに過酷な練習が美談になる。たとえば今春のセンバツ甲子園前には、長崎県・県立大崎高校の丸太を持って走る練習中、選手の大腿骨が折れたという記事が話題になった。

 テレビでもYouTubeでも、胃袋の限界に挑む大食い企画が鉄板だ。「笑ってはいけない」というのも、ある種の根性比べ。苦しむ姿がエンターテインメントになる。

 フィクションの世界でも根性は欠かせない。社会的ブームになった『鬼滅の刃』では冨岡義勇が「動けるか。動けなくても根性で動け」と言って竈門炭治郎を逃した。『スラムダンク』ではキャプテン・赤木が桜木花道を「この根性なしが!」と罵倒するシーンがあった。

 自分が強要されるのは嫌だが、誰かが困難と戦う姿を見るのは好き。良くも悪くも日本人の心を惹きつけるのが根性なのである。

 時代遅れになった「昭和の遺物」は、さっさとゴミ箱に捨てるべきだ。だが、ここまで日本人の心の奥底まで入り込んでいるとなると、簡単には処理できそうにない。ゴミ箱に捨ててもゾンビのように這い出て、再び根性の呪縛をもたらすだろう。

 逆に言えば、日本人の心を掴んでいるからには、何か大事な本質が隠されているのかもしれない。トップアスリートや一流経営者に取材すると「必要だ」と言う人も多い。

 果たしてその根性はどんなものか? 根性論が敬遠されている今だからこそ、もう一度手のひらに乗せ、いろいろな角度からじっくり眺めてみるべきではないだろうか。

 今回、根性研究の第一人者、関東学院大学の岡部祐介准教授に会いに行った。箱根駅伝に3度出場した元ランナーで、根性論を自ら体験してきたエキスパートだ。

岡部 祐介(おかべ・ゆうすけ)氏 関東学院大学経営学部准教授。博士(スポーツ科学)。 専門はスポーツ哲学、スポーツ文化論、スポーツ思想研究。中学校から大学まで 陸上競技部に所属。長距離種目を専門とし、大学では箱根駅伝にも出場。現職の大学では陸上競技部の副部長を務める。 

 

「『東洋の魔女』を金メダルに導いた大松博文さんは、『根性論が流行する過程で間違って捉えられている』と警鐘を鳴らしていたんですよ。大松さんが提唱したハードトレーニング、猛練習が誤解されていると」

 岡部は「間違っても、今回の東京五輪に根性論が必要だと主張しているわけではありません」と前置きしたうえで、そう語った。

 大松博文氏といえば、「根性論」の代名詞とも言える人物である。座右の銘は「為せば成る」。スパルタ式の指導法で1964年の東京五輪女子バレー代表を金メダルに導いた──と言われ、その名をスポーツ界に知られる名将だ。

 そんな大松氏の根性論が誤解されているとはどういうことか?

 今回のインタビューで明らかになったのは、日本中に広まった根性論は「ニセモノの根性」、つまり「エセ根性」という衝撃の事実だった。

1964年東京五輪で「根性」の意味が変わった

——岡部先生は「根性」の歴史を研究し、1964年東京五輪がきっかけとなって使われ方が変わったことを突き止めました。あらためて研究を教えてください。

岡部:まず国語の辞書を遡ることから始めました。すると昔は「根性」の欄に、「心根」、「性根」といった「生まれながらに持っている人間性」が主な意味として書かれていたんです。島国根性や泥棒根性といった使い方で、ネガティブな意味合いです。

 それが1970年以降から「久しく耐え忍ぶ精神」という2つ目の意味が書かれるようになった。ポジティブな意味合いです。

 なぜ辞書で「生まれながらに持っている人間性」が主な意味だったのに、1970年以降に「久しく耐え忍ぶ精神」という意味が加わったのか?

 それを突き止めるために、新聞記事や雑誌における「根性」という単語の使用頻度を調べました。すると1964年東京五輪前後から、アスリートを称賛する文脈で頻出するようになるんです。

 たとえば朝日新聞を見ると、1959年まで根性が「久しく耐え忍ぶ精神」の意味で使われた回数はゼロだったんですが、1960年に3回、1961年に2回とポツポツ使われ始め、1964年には17回にもなった。そこから安定して使われていきます。

 一方「生まれながらに持っている人間性」の意味での使用は、1960年代後半にほぼなくなった。

 東京五輪前後に、日本人の根性に対するイメージが変わっていったということです。

——なぜ1964年東京五輪で「根性」の意味が変わったのでしょうか?

岡部:東京五輪は日本スポーツ界が初めて本格的に科学的なアプローチをした大会でした。メンタル面でもどうしたら本番で緊張しないか、あがらないかといったことが研究され始めた。その流れで「根性が必要である」という方針が出てくるんです。

 東京オリンピック選手強化対策本部のスポーツ科学研究委員会(現在のJSPO/日本スポーツ協会)心理部会は、「根性」を次のように定義しました。

 「高い目標意識をもち、その目標達成のために精神を集中しそれを持続する強烈な勝利への意志」

 ようは「勝利への強い意志」ですね。現代のアスリートからすると、当たり前のことかもしれません。

 なぜ「根性」という言葉を使ったのか? のちに東京オリンピック選手強化対策本部長の大島鎌吉さんがこう明かしています。

 「試合で選手の能力をフルに発揮させるのは結局のところは、強い意志の力による。精神力だ。そのことは経験的にはわかっていたが、それをどうやって、選手たちに理解させるかが問題だった。それには、感情に訴えるのが早道だ。根性という言葉がぴったりだと思った」

 つまり、科学的なアプローチを含めた勝利に必要な資質を選手にどうしたら伝わるかを考えて、「根性」という言葉が選ばれたということ。

 スポーツ科学を導入したものの、なかなか選手が取り入れてくれない。ならば馴染みある言葉を新しい意味で使って、感情に訴えたらどうか。そんな狙いがあったのではないでしょうか。

 ちなみに大島鎌吉さんは1932年ロサンゼルス五輪の三段跳で銅メダルを取った元アスリートです。

東洋の魔女をつくり上げた「創造力」

——「根性」は強化対策本部長の大島鎌吉さんが考えたいわばキャッチフレーズだったんですね。それが広まって現代まで影響を及ぼすとは。今で言うと糸井重里さんや佐藤可士和さんみたいな存在ですね。

岡部:東京五輪の根性を語るうえで、もう1人キーマンがいます。女子バレーボール日本代表チーム「東洋の魔女」を率いた大松博文さんです。

大松博文氏(写真:アフロ)

 

 大松さんは大日本紡績貝塚工場の女子バレーボールチームを鍛え上げ、1962年世界選手権で旧ソ連を破って初優勝。2年後の東京五輪で再び旧ソ連に勝ち、金メダルを手にしました。

 僕は「大松イズム」と呼んでいるんですが、大松さんには独自の哲学があります。

 それが東京五輪の金メダルによって注目を集め、新しい「根性」とともに一般の人たちに伝わり、いろいろな分野で根性論が実践されていく流れが生まれたのだと思います。

 根性論がいまだに受け継がれているのは、それだけ1964年の東京五輪が成功体験として記憶されているからでしょう。

——話をまとめると、大島さんがキャッチフレーズとして「根性」を考案し、「東洋の魔女」たちの東京五輪の華々しい活躍によりそれがスポーツ界だけでなく一般にも広められたというわけですね。

岡部:はい。ただし、その背景にも注意を向ける必要があります。大松さん自身は「根性論が流行する過程で間違って捉えられている」と警鐘を鳴らしていたんですよ。大松さんが提唱したハードトレーニング、猛練習が誤解されていると。

——どういうことですか?

岡部:大松さんはハードトレーニングを「自分自身で日々課題を克服する取り組み」だと定義している。つまり押し付けられるものではなく、主体的なものなんですよ。

 著書『おれについてこい!』(1963年/講談社)にも「すべては自分自身のためだ。(中略)おれがやれというからしかたなくやるのでは、やらないほうがいい」と書かれている。

 ハードトレーニングは、あくまで主体的な実践によって行うべきだと、大松さんは発信していました。

──現代の根性のイメージとは少し違いますね。

岡部:誤解されがちなんですが、大松さんは上から目線で指示しているのではなく、「率先垂範」を重視していた。まず自分がやって見せる。誰よりもハードワークをしていたのが大松さん本人でした。強制的に縛りつけて従順さを要求していたわけではない。

 土台には、選手たちとの強い信頼関係があったんです。

——『おれについてこい!』を読むと、河西昌枝キャプテンが「ただ1つわかることは、やめたい気持ちになったら、オリンピック前日でもやめられる、ということです」と言っていて驚きました。選手が自分で決められるんだと。

岡部:カンヌ映画祭短編部門でグランプリを受賞したドキュメント『挑戦』(1963年)の中で、谷田絹子さんが大松監督に詰め寄るシーンが映っています。監督がボールを投げてレシーブする練習なんですが、あまりに連続して投げることに谷田さんが抗議したんです。

 それを見ると、選手と監督が対等な関係なんだなとわかる。指導者が権力を持っているとイメージしがちなんですが、そこは違っていた。

 また、大松さんは指導者の条件として、「創造力」も挙げていました。

——創造力と言えば、大松さんは「回転レシーブ」や「木の葉落としサーブ」を生み出したことで知られていますね。バレー界になかった技を発明した。

岡部:大松さんは著書『なせば成る!』(1964年/講談社)と『バレーボールの心』(1975/ベースボール・マガジン社)でこう書いています。

 

 

 「わたしのしかりかた・笑わせかたは、わたしという人間の個性から出るものであって、まねしたってだめなのだ。回転レシーブだけ見習っても、そんなものは、もっと別な、いい方法が出れば負ける。サーブも、これという一つの方法よりも、六人それぞれ個性的であるがゆえに効果的なのだ。つねに新しい道を捜さなければならない。経験からいうと、それは練習よりもはるかに苦しいものだ」

 「ある一つのものに対応して、次のものを打ち出していく、この創る喜びがあってこそ、はじめて選手も厳しい練習について来られるし、また、あきずにつづけられるのです」

——「創造は練習よりもはるかに苦しい」、「創る喜びがあってこそ厳しい練習について来られる」という部分は、現代の根性論では完全に抜け落ちていますね。

岡部:創造の背景には、目的合理性もあったと思います。日本人の身体的な特徴やストロングポイントを考え、どう戦うかを考え抜いた末に生まれたのが「回転レシーブ」や「木の葉落としサーブ」です。

 やみくもで非科学的なものではなくて、考え抜かれたものだったんですよ。

<後編へ続く>