8月7日に開催された女子10000メートル。新谷仁美(左から2番目)は21位だった。(写真:ロイター/アフロ)

(木崎伸也:スポーツライター)

 究極の根性を持つ選手が、クリエイティブなコーチに出会うと何が起こるのか——。

 新谷仁美が東京五輪でメダルを本気で獲りに行く挑戦は、まさに新時代のコーチとの出会いによって生まれたものだった。

 新谷は2012年ロンドン五輪の10000メートルで9位になったが、2014年に引退。一度は会社員として働き始めたが、再びレースの魅力に引き寄せられ、5年のブランクを経て復帰。Nikeの紹介で、横田真人コーチのもとで練習することになった。

 当初、新谷はコーチを頼らず、自分で練習メニューをつくるスタイルを貫いていた。だが、2019年世界陸上ドーハ大会で11位に甘んじたのをきっかけに、横田がメニューをつくり始める。それによって再覚醒し、20年の12月、10000メートルの日本記録を18年ぶりに28秒45秒も更新した。

 残念ながら東京五輪本番の10000メートルでは22位に終わったが、トラック外では女性の視点から積極的に意見を発信し、新たな女性アスリート像を示した。

 「根性×クリエイティビティ」という幸せなタッグはどう生まれたのか?

 『TWOLAPSトラッククラブ』(以下、TWOLAPS)の代表兼コーチの横田に話を聞いた。

横田真人(よこた・まさと)現役時代は富士通陸上競技部に所属。男子800メートル元日本記録保持者であり、2012年ロンドン五輪出場。日本選手権では6回の優勝経験を持つ。 2016年に現役引退後、2017年4月NIKE TOKYO TCコーチに就任。2020年1月TWOLAPS TCを立ち上げる。 選手一人一人に合わせた”オーダーメイドのコーチング”がモットー。米国公認会計士の資格を持ち、スポーツに関連した様々なビジネスを手がけるなど、経営者としても活躍する

最大の転換点は、ドーハのマックで

——横田さんは800メートルの選手としてロンドン五輪に出場したあとアメリカに留学し、米国公認会計士試験にも合格しましたね。『TWOLAPS』は自由な指導で有名ですが、ときにはムチで選手を叩いていてやらせるようなことはありますか?

 ムチでは絶対に叩かないです。でも、失敗をさせます。

 そのままだとダメだとわらかせる。もちろん後出しじゃんけんはズルいので、ちゃんと前もって伝えるけど、無理に聞かせようとはせず、どうぞ失敗してくださいというスタンス。それで結果が出なかったら、『ほらね』と。

 たとえば食事を改善して欲しかったら、試合までに毎日写真を送ってもらい、試合後に結果と見比べる。『この結果なら、何かを変えなきゃいけないんじゃない?』と。

 選手が一番変わるのは、失敗したときです。

——新谷選手がまさにそうだったわけですね。最初は新谷選手がメニューを自分で決めていたが、2019年世界陸上ドーハ大会のあと、横田さんが「自分がつくる」と提案して変わったと。

 僕にとっても、めちゃくちゃ大きな提案でしたね。実は僕も現役のとき、自分でメニューをつくっていたんですよ。その後、アメリカを拠点にしたときにメニューをつくってもらう経験をした。

 自分でメニューを決めていたときは、当たり前ですが、きちんと意図を込めることができた。一方、海外のコーチに教わると、意図を細かく教えてくれる人もいれば、そうじゃない人もいた。

 自分に馴染みがないメニューの場合、なんでやる必要があるんだろうと感じ、フラストレーションがあった。

 多分、新谷もそういうタイプで、彼女にとっては大きな決断だったと思う。こだわりがあるのはわかっていたからこそ、提案するタイミングはずっと気をつけていました。

——どこかのタイミングで提案しようと思っていたんですか?

 このトレーニングの組み方だと限界があるなと思っていたんです。でも、彼女には言わなくて。

 人って同じことを言われるにしても、誰に言われるかが大事だし、いつ言われるかも大事。同じ日の中ですら、受け止め方が変わる。だからずっとタイミングを見計らっていました。

——世界陸上ドーハ大会のレースが終わった夜、新谷選手が世界のトップとの差を痛感したタイミングで伝えましたね。

 逆に言えば、これでいけるのなら行けばいいと思っていた。ドーハでメダルを取っていたら、スタイルを変える必要がない。

 でも、彼女が望む結果じゃないのは、表情を見てすぐにわかったんで、今のタイミングしかないと。

新谷はレース後、「何度も何度も逃げ出したくて、そのたびに前を振り向かせてくれる人がいて、走りきることができました。本当にありがとうございました」と話した(写真:ロイター/アフロ)

——どういうタイミングで言ったんですか?

 レースが終わって、夜10時くらいに2人で食事でも行こうとなって、ドーハのマックに入りました。ハンバーガーを食べながら、これからどうしようかと話したんです。

 そこで『変わっていかなきゃダメだよね』と。『こういうことをやってみたら?』という感じで言っていたら、『じゃあ組んでみてください』となって。

 世界選手権の結果としては、復帰した人間が2年で世界の11番目まで行ったのだから、すごい結果ではあるんですよ。普通の人間だったら満足する。けど、彼女はしなかった。

 そのとき僕から『新しいことをやろ。ハーフマラソンをやってみよう』と提案しました。ハーフマラソンにチャレンジしたら、絶対に日本記録を出せるって思ってたので。

 で、実際、9カ月後に新谷はハーフマラソンの日本記録を更新するわけです。

——ハーフマラソンで日本新。さらに昨年12月の日本選手権では、10000メートルでもぶっちぎりで日本新を出した。以前と何を変えたんですか?

 一番は負荷量のコントロールです。

 やっているコンセプトはそんなに大きくは変えなかったんです。彼女がやってきたことはシンプルで、レースを想定して練習もレースペースで走る。それは今も一緒。

 でも、練習メニューが数種類しかなかった。なおかつ『自分で決めたメニューなのだからやらないのは逃げだ。今日できないメニューは明日に回して、やり切らなきゃいけない』という感じで、負荷をコントロールすることができていなかった。

 それが怪我につながり、練習をできない時期が生まれていた。

 僕がやったのはレースペースを大事にするコンセプトはそのままにして、3カ月、4カ月のプランを組み立て、負荷をコントロールすること。足が痛かったら治るまでやらない。それでもやりたいなら、せめて量と負荷を減らす。

 彼女は決めたことはやらなきゃいけないっていうメンタリティなんですが、その日の体調や気候も考慮して微調整しようと伝えました。

新谷はレース後、「何度も何度も逃げ出したくて、そのたびに前を振り向かせてくれる人がいて、走りきることができました。本当にありがとうございました」と話した(写真:ロイター/アフロ)

 大きいゴールを決めよう。そこから外れなければ、微調整していい、と。

——目標達成意識が強い選手だと、決めたことをやれない自分はダメだと思ってしまうんですね。

 極端な話、今日やって怪我して1週間休むのと、今日負荷を落として継続してやれるのと、どっちがいい? そんな問いかけをしました。

——俯瞰してブレーキをかけてあげる。

 まさにブレーキをかけるのが仕事です。そこはいまだにせめぎ合いです。僕はこれぐらいでいいと言うと、私はこれぐらいやりたいと。

——新谷選手はかなり自己主張が強そうですが、せめぎ合いをどういなしていますか?

 最終的には選手に決めさせます。だって、走るのは選手ですから。

 逆に言えば、この範囲の中だったらいいよ、という提案の仕方をしている。メニューに関しては、これじゃなきゃいけないという提案はどの選手にもしません。

悩んで、ジグザグに進むのがいい

——横田さんが率いる『TWOLAPS』では、自主性を重んじた指導で有名ですが、新谷さんとの関係は逆説的でおもしろいです。

 自主性って何かって話ですよ。特に陸上だと昔から『自分でメニューを考えられる選手は自主性がある』ってよく言うんですが、僕はまったくそう思ってなくて。

 みんなアメリカの選手は自主性があると言いますよね。でも、アメリカの選手はコーチに『次何やればいい?』としか言わない。

 ただし、コーチを選ぶんですよ。いろいろ情報を調べて、このコーチにつけば強くなれると考えて、コーチを選ぶ。そこに自主性がある。

——コーチに任せるのも自主性なわけですね。

 そう。結局、自分の人生に対して責任を持つことが自主性だと思う。

 とはいえ、トレーニングの中でも、選手が決める部分をある程度残しています。昔はジョグの時間とペースまで細かく提示していたんですけど、今はメニューの中にジョグとしか書かない。

 自分の目標がどこにあり、どれくらいのジョグが必要かを自分で考えてもらう。

 ジョグを朝、昼、夕方のいつにやるべきか。どれくらいのペースで、どれくらいの量をやるべきなのか。それは自分で考えてください、と。

 本質的な部分、大きな方向性は、僕が握るんですが、一定範囲は自分で考えるところを残す。

 なぜなら、中長距離は自分の体との対話のスポーツなんですよ。これくらいで行ったら勝てる、これくらいで行ったらバテる、ここは我慢してでもついていかないといけないとか、ペース戦略のスポーツ。

 普段から体と会話してない選手は、行っちゃいけないところで行ったり、逆に行くべきところで行けなかったりする。

 あとは負荷の高い練習は、相談して微調整して決める。『基本はこれだけど、設定をどうする?』と質問して、『足が痛いんで、上げすぎないで気をつけたい』と答えが返ってきたら、それを反映する。

 体と普段から会話して、自分の体をきちんと表現できるようにしていないと、そういう言葉は出てきません。

——ときに突出した根性は自分を追い込みすぎて、肉体が悲鳴をあげてしまうことがある。横田さんはそれにブレーキをかけ、新谷選手が長期的に伸びて行けるようにしたわけですね。

 僕も純粋にアスリートとして日々自分を追い込んできたつもりですが、新谷ほど毎回レース本番のような鬼気迫る表情で練習する選手を見たことがない。

 僕も『練習のときに雰囲気が変わる』とよく言われたんですが、新谷を見ていると(そのときの自分が)お遊びに感じる。

 新谷のレース前の表情は、不安から生まれているんですよ。結果が出ないかもしれないという不安。走るまでわからないし、1%でも不安があるとそっちが勝つ。練習で1回でも失敗したら、最終的な到達点が下がると思ってしまっている。1度下がったら、下がりっぱなしになると思い込んでしまっている。

 だから、ジグザグに行っていいんだよと伝えた。そもそも体自体に周期があって、ジグザグにできている。トレーニングもそうあるべき。

 考えて、悩んで、どうにかしようって思うことの方が正しいと思う。自分のあるべき姿とのギャップに苦しんでいるのは、目標がちゃんとあるから。

 きちんと考えているからこそ、そういうことに苦しんでいる。それを乗り越えた先に、強い自分がいる。

 簡単に手に入ったものは、簡単に失われると思う。逆に苦労して得たものこそ価値がある。それが根性的なものだと思う。

先頭集団を引っ張る場面もあった(写真:アフロスポーツ)

——横田さんは根性とクリエイティビティを見事に融合していると思います。

 コーチングってなにかというと、教えるわけじゃなく、引き出してあげる作業なんですよね。

 教えるという作業は、自分が持っているものを伝えればいいだけ。特定のモデルに当てはまるように教えていけばいい。それがティーチング。

 一方、コーチングは選手が自分の中に持っているものを引き出してあげる。

 指導者がいろいろな選手に対応するには、どれだけ引き出しを持つかが大事。そういう意味で、僕は米国公認会計士の資格を取得するなど、普通の人よりいろんな経験をしてきた。それがコーチになってからすごく生きていると思う。

 コーチになりたいなら、いろんなことをやれと言いたい。それが引き出す作業につながる。

——無理やりやらせても限界がある。いかに選手に自走させるか。

 僕らは選手のプライベートまで管理するタイプのチームではない。選手に任せる部分が多いから、僕らも空き時間が生まれてクリエイティブになれる。みんなでより大きな価値を生むにはそうしないと。

——寮に住み込んで指導するようなやり方とは真逆ですね。

 箱根駅伝に出るような大学でも、いまだにそういうところが多いと思います。さらにそれが美談になる。

 僕は美談じゃないと思う。選手も指導者も、どっちもしんどいと思う。

 

——我慢すれば勝てるという考えが、根強くあるのかもしれないですね。

 それしか成功事例がない。そこが日本の中長距離の問題だと思います。