最近、自分のプレイリストがひどく混迷を極めています。

シティポップが再流行して久しいですが、その波に乗るように岡村靖幸の濃密なファンクに酔いしれ、レベッカの『フレンズ』で切なさが爆発し、松原みき『真夜中のドア』の洗練に浸る。そして気づけば『星降る街角』を口ずさんでいる。ロックからムード歌謡まで、まさに節操がありません。

一言で言えば「懐メロ」にハマっているわけですが、ふと思い出したことがあります。

私は小学生の頃、この「懐メロ」という言葉に言いようのない違和感を抱いていました。 CD屋さんの棚を見れば、ポップス、ジャズ、演歌、クラシックと並んで、当然のように「懐メロ」というコーナーがある。

だが、よく考えてみてほしいのです。 ジャズや演歌には、リズムやメロディの「型」があります。しかし懐メロにはそれがない。昨日まで最新のポップスだった曲が、時間が経てば「懐メロ」という箱に放り込まれる。

「ねえ、なんで懐メロは音楽の種類じゃないのに、ジャンルみたいになってるの?」

近くの大人を捕まえては、そんな理屈っぽい疑問を問い詰めたものでした。だが、返ってくるのは「ほんとだね」「さあ、知らないよ」という頼りない言葉ばかり。小賢しいガキだった私は、大人の無責任さに鼻を鳴らしていました。

けれど、50を過ぎた今ならわかります。 懐メロとは、音楽の形式ではなく「記憶」というフィルターのことなのだと。

バラバラな曲たちを一つに束ねるのは、音ではなく「あの頃の空気」。それはもはや、個人の思い出を超えた一つの巨大な「居場所」として成立しています。 ジャンルとして認知されるほど、人間にとって「過去の自分と対話する時間」は不可欠なのでしょう。

かつて問い詰めた大人たちのように、私もまた「いいもんだね」とだけ呟いて、脈絡のない音楽に身を委ねている今日この頃です。