1年後に迫った北中米ワールドカップ。
優勝を目標に掲げた森保ジャパンの支柱はキャプテン・遠藤航である。たんたんと自身のプレーをこなすように見える遠藤だが、そのキャリアのなかには、同じ時代をともに戦ったある選手の言葉が転機になっていた。
本人の哲学がふんだんに詰まった著書であり、いまだに版を重ねる『DUEL』より秘話を紹介する。

2022年、ホテル「オーストラリア」
カタールワールドカップ出場を決めた2022年3月24日。
僕たちはアウェイでオーストラリアと対戦し、2対0で勝利を収めることができました。
試合後のホテル、食事会場。
もともと日本代表の遠征では円卓で数人ずつ集まって食事をすることが多いのですが、新型コロナウイルスの感染が拡大してからは、ひとりずつの席が用意され、黙って食事をすることが多くなっていました。
この日も、会議室のように並行に並べられた机での食事。
キャプテンの(吉田) 麻也くんがグラスを持って、挨拶をしました。
「タフな予選、たくさんの批判もあったけど、一丸となってワールドカップを決められてうれしいです」
ばらばらの席とアウェイの地。
状況的に「みんなで乾杯をして喜びを分かち合う」ことは難しかったのですが、チーム全体を包む雰囲気は、興奮もありつつ、安堵と、これからのメンバー争いやワールドカップ本戦への高揚感みたいなものがゆったりと漂っている感じがしていました。
それは個人的にも同じで、「ここからがスタートだ」という感覚でした。
この4年近く、ワールドカップで活躍するために努力をしてきた。その舞台に立てる権利を手にしただけ。決して「よっしゃー!」というような湧き上がる喜びがあったわけではありませんでした。

加えていえば、所属しているシュツットガルトが残留争いをしていて、頭の半分は早く帰ってチームの力にならねば、とスイッチが切り替わっているところもありました。
そんな「喜びだけに支配されない感覚」が作用したのかわかりませんが、食事の席、その後と、いろんな選手とポツポツと、これまでを振り返る時間がありました。
冒頭の一言は、そのときのものです。
拓実の言う「あのタイミング」は僕の初めての海外移籍のこと。
2つ年下の拓実とはリオデジャネイロ五輪出場を目指すアジア予選を皮切りに、リオデジャネイロ五輪本大会、ワールドカップ予選と日本代表として一緒にプレーをしてきました。
同じ世代で戦ってきたとはいえ、僕と拓実はまったく違う道を歩んでいます。
僕が海外へとプレーの場を移したのは25歳のときで、チームはベルギーリーグのシント=トロイデンでした。
一方で拓実の経歴は華々しく、19歳でセレッソ大阪からオーストリアのザルツブルクに、その後プレミアリーグ(イングランド)の名門・リバプールに移籍して約3シーズンを戦い、現在はリーグアンの強豪・モナコに所属しています。
ザルツブルク時代にチャンピオンズリーグで前年王者のリバプールを相手に1ゴール1アシストを奪ったこと、プレミアリーグやカップ戦のタイトルを獲得したことなど、日本のサッカー選手の中でも有数の「経験」を持つ存在で、そのすごさは同じサッカー選手としてよくわかっています。
ヨーロッパのクラブでプレーすることはプロサッカー選手の目標です。特に、世界でもっともレベルの高いリーグと言われている五大リーグ、プレミア、リーガ(スペイン)、ブンデス(ドイツ)、セリエA(イタリア)、リーグアン(フランス)でのプレーは憧れとも言えます。
そして、その実現のためには拓実のようにできるだけ若いうちからヨーロッパの「それ以外のリーグ」(いい言い方なのかはわからないですが、それゆえステップアップリーグとも呼ばれています)でプレーすることが「正解」だと言われています。
その点で25歳での僕の移籍はかなり遅いものでした。
単純に比較してしまえば、この時点で23歳の拓実は、すでに4シーズン海外でプレーしているわけです。相当大きな差だと自分でも思います。
僕の移籍は、「海外でプレーしたいという夢を追う」といえば聞こえはいいですが、相応のリスクもありました。
「日本人らしさ」を覆し、世界を驚かせた男。
――強い日本人選手、誕生の裏側。
【内容】
4年前試合に出ることができずロシアW杯を去った男は、たった4年間で日本代表に欠かせないドイツでNO.1の男へと成長を遂げた。そこにあった秘密とは?「日本人はフィジカルで世界に勝てない」「ドイツ語を話せない日本人が主将を?」…常識を次々と覆した遠藤航がはじめて明かす日本が世界で勝つ思考のヒント。
当時所属していた浦和レッズは日本を代表するクラブであり、注目度も高い。常に試合に出られていて、自分が成長できる感覚もありました。さらに私生活に目を向ければ、子どもも3人いて(4人目はベルギー移籍後に生まれました)生活もしやすい。恵まれた環境でした。
移籍は、そのすべてを「変える」ということです。
だから拓実は「よくあのタイミングで移籍したよね」と言ったのです。
自分のことながら、「確かに」と納得したものです。

ただ、シント=トロイデンからオファーがあったとき、悩んだかと言われれば、そんなことはありませんでした。
単純に「ラストチャンスだ」「行くしかない」と。
頭をよぎったのは離れることになるレッズへの思いで、それはクラブへの愛着や、レッズの将来への責任みたいなものを感じ始めていたから。
決して、「挑戦が遅すぎる」とか「環境を変えるリスク」を考えるようなことはなかったのです。
あのとき移籍を決断したことは僕のサッカー人生に大きなものをもたらしました。
サッカー界で言われる「正解」が頭にあれば、僕はブンデスでプレーすることも、デュエルに強いといわれることも、もしかすると日本代表の主軸としてプレーできることもなかったかもしれない──拓実の言葉にそう気付かされました。
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