日本古代史の専門家が、研究の最前線を紹介する「謎解き古代史」。音声でわかりやすく解説するシリーズ「今知りたい古代史の謎」、初回は「古代武蔵国の渡来文化」を紹介します。
663年の白村江の戦いで、倭国、すなわち後の日本と、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済遺民との連合軍は、再び唐と新羅の連合軍に敗れ、日本には多くの百済人が渡来します。彼らは現在の大阪にあたる摂津国に移り住み、この地は後に百済郡という郡になります。さらに今度は渡来していた高句麗人、新羅人に対して、朝廷は彼らの住まう場所を武蔵国(現在の東京、埼玉・神奈川の一部)に決め、それぞれ「高麗郡」「新羅郡」と名づけます。
なぜ彼らは、朝廷のある五畿(平城京を取り巻く大和国・山城国・河内国・摂津国・和泉国の5国)からはほど遠い武蔵国に住まわせられたのでしょうか? そもそも渡来人はいつから日本にやってきたのでしょうか? 日本から渡来した人物はいるのでしょうか?
3回に渡り、解説します。
*初回無料、今回は記事でもお楽しみいただけます!
皆さんこんにちは。大東文化大学の宮瀧交二です。
こちらのシンクロナスで始まった「謎解き日本古代史」、「今知りたい古代史の謎」ということで、今回は直接私が皆さんにお話をさせていただこうと思って、やってまいりました。
日本古代史の謎はもう山ほどあるんですけども、皆さんが1番関心があるのは、例えば邪馬台国の問題とか、『日本書記』、『古事記』には本当のことが書いてあるのか、いろんなご関心があるかと思いますが、やがてそういう問題も取り上げますが、最初は私が最近研究して、あちこちの歴史講座等でお話ししているテーマで、まずは始めてみたいと思っています。
663年、白村江の戦いで、百済が敗れる
今日は、「古代武蔵国の渡来文化」、日本の古代に、古墳時代から奈良、平安時代に大勢の渡来人が日本に朝鮮半島、中国からやってきて、たくさんの文字ですとか「須恵器」という焼き物とか、あるいは金属加工の技術を伝えたことは、皆さんも学校で習ってよくご存じだと思います。
そういう中で、ちょっと歴史、古代史がお好きな方は、武蔵国ですね、今の東京、神奈川県、埼玉県の(東京以外は、神奈川県は神奈川県の主に東半分ですね。それから、埼玉県も一部分は下総国になるんですけども)大変広い武蔵国の中に朝鮮半島の高句麗の渡来人が移り住んで作った「高麗郡」。「高句麗」の「句」の字が抜けて、郡の名前は2文字で作るという決まりがありますので、高麗郡になります。それから、新羅の「新羅郡」。この2つの外国の名前をつけた郡があるということをご存知の方がいらっしゃると思います。
中学校や高校の日本史の授業で、当時の7世紀から8世紀頃の朝鮮半島のことも習ったと思いますが、記憶していらっしゃいますか。
朝鮮半島は、今の北朝鮮にあたる北部の方が高句麗という国になっていました。そして南の方は今の韓国になりますけど、東側が新羅国、西側が日本と同盟関係を結んでいた百済国になっていました。こういう大きな国が3つあったんですけども、懐かしいかと思いますが、663年に白村江の戦いという戦いがありまして、この時に百済国が完全に滅亡してしまうわけですね。唐と新羅の連合軍に敗れてしまうわけです。
それから、その5年後、今度は高句麗も、百済を破った連合軍に滅ぼされてしまって、朝鮮半島は新羅がほぼ統一する、そういう状態になっていったわけです。日本と同盟関係にあった百済国は、一族は日本に亡命してきて、今の大阪、摂津国の難波に移り住んだということが『日本書記』に書かれています。
そういう中で、8世紀になりますと、武蔵国、先ほど申し上げた神奈川、東京、埼玉の国の中に、朝鮮半島の国の名前をそのまま郡の名前にした、高句麗の国名をつけた高麗郡と、新羅の国名をつけた新羅郡という郡が2つ誕生するわけですね。
これは、今の時代に置き換えていただくとどれだけ大変なことか、皆さん想像していただけますでしょうか。例えば、埼玉県ブラジル市とかですね、東京都北朝鮮市とか、そういう市の名前があるというのはちょっと違和感があると思いますけど、そういうことが実際にあったわけですね。
まず先ほどの白村江の戦いで滅んだ百済の人たちは、その翌年、天智天皇3年、664年に大阪の摂津の国の難波に移り住んできます。日本を頼って亡命してくるわけです。そこで時の朝廷は、同盟国であった百済の王族を自分の膝元に住まわせたわけです。この百済の王族たちは奈良時代以降には摂津国百済郡という郡を作って、そこで人々は暮らしていきます。
ですから、同盟国の百済については天皇の膝元、これが後でお話しする日本型の中華思想という話と関係してくるんですけども、天皇がいる平城京、奈良の都の周辺の5つの国、大和国、今は奈良県ですね、それから山城国、京都府、それから大阪の3つの国、河内国、和泉国、摂津国と、この5つの国を近畿地方を代表する5つの国という名前で「五畿」、畿は近畿地方の畿で、五畿国と言いますが、その中の摂津の国に同盟国の百済から亡命してきた人たちを移り住まわせて百済郡を作るわけです。同盟国ですから、天皇の膝元に置くということですね。
古墳時代から来ていた渡来人
ところが、当時、敵国に当たる高句麗、それから新羅の渡来人は、実際には古墳時代のかなり早い時期から全国に移り住んできていたんです。まずその渡来人という言葉ですけども、これはまさに渡ってきた人と書くわけでして、もうこれは物理的に諸外国、海の向こうから日本にやってきた人という表記です。
かつては、私ももう60代半ばですけども、昔勉強された方は、渡来人という言葉よりも帰化人という言葉を連想される、あるいは帰化人という名前で学校で習ったという方も大勢いらっしゃると思いますが、帰化というのは、これはお相撲さんでよく日本国籍を取って、親方になるために自らの意思で日本国籍を取る人がいるように、自ら進んでその国の国籍を取ることを帰化というわけですね。
おそらく渡来人の中には帰化した人もいるでしょうけども、そういうことと関係なく、ただ、海の向こうの島国である日本に新天地を求めてやってきた人、たまたまその海の向こうの島が日本、当時の倭国だったという人たち、あるいは、白村江の戦いで日本軍の捕虜になって、特に多くの技術者は日本軍に日本列島に連れ帰られた人も大勢いたかもしれません。いろんな形で日本にやってきた人がいたと思いますので、最近では帰化人と言わずに、帰化人をも含めた概念で渡来人という風に教科書では使っています。今後は、私の話でも渡来人と言っていきたいと思っています。
先ほど、白村江の戦いで敗れた百済の人たちが664年に日本にやってきた、それから、白村江の戦いから5年後の高句麗の滅亡で高句麗の大勢の人たちが日本に逃れてきた、こういうことを言いましたけども、実際にはですね、この7世紀よりも前から、もうすでに5世紀ぐらいの段階から大勢の渡来人が日本列島に移り住んでいました。海の向こうの島ですから、もう簡単に行ってみようっていう気になるわけですよね。
日本からも朝鮮半島に渡来していた
よく渡来人というと、中国、朝鮮半島から日本に来た人のことばかりの話を連想しがちですが、当然、日本から朝鮮や中国に行っていた人も大勢いたわけですね。一方通行ということはありません。こういうことが最近の研究で分かってきています。
例えば、弥生時代以来ですね、水稲耕作、米作りを教わっていた日本ですけども、日本がただでそれを教わっていたとは思いません。その見返りに、日本にしかないいろんな技術を朝鮮半島に提供していたかもしれません。近年注目されているのは塩作りですね。人間が生きていく上で塩というのはとても大事なんですが、朝鮮半島には砂浜の海岸がないわけです。
みんな日本の三陸海岸のようなリアス式の岩場の海岸しかなくて、塩作りはまずこう海水を砂浜に撒いて、そこで塩の結晶を太陽の力でたくさん作り、それを煮詰めていって、塩分の濃い海水から塩を作るという「入浜式塩田」と言うんですが、砂浜が必要なんですね。
ですから、朝鮮半島は様々な文化を日本にもたらしたわけですけど、その見返りとして日本からは塩を送っていたんではないか、最近こういう研究が注目されています。
それから、日本の国石になってる翡翠ですね。これは、日本では新潟県の糸魚川周辺にたくさん打ち上げられていたり、あるいは糸魚川の河原の中にその原石があったりして、どこでも採れる石ではなく、富山県から新潟県の南部辺りに集中して採れる大変綺麗な石ですけど、縄文時代からみんなこれをペンダントとして使っていたわけですが、朝鮮半島でもですね、古墳時代の王族の冠を見ますと、日本の翡翠がたくさんこう渡っていて、装飾に使われているんですね。ですから、朝鮮になかった翡翠が日本からの交換物としてたくさん輸出されていたっていうこともね、これも事実なんですね。
ですから、渡来文化あるいは古代の日本と中国、朝鮮半島の関係は、片側からの矢印だけで考えるのではなくて、必ず相互の矢印、双方からの矢印で考えていかなければならないと、そんな一方通行ってことはないということを、まず皆さんに申し上げておきたいと思っています。
日本で唯一の「馬の鞍に旗が立っている埴輪」
古墳時代もですね、いろんな渡来人が来ていたことがわかるんですね。1つ例を挙げますと、埼玉県の行田市にあります酒巻14号古墳という古墳から、馬の埴輪が出ているんです。この馬の埴輪は日本各地から出るんですけども、なんと、この酒巻14号古墳から出た馬の埴輪はですね、鞍に旗が立っているんですね。
これは、日本の馬の埴輪で唯一です。で、鞍に旗を立てるというのは、これは今の北朝鮮あたりの古墳の壁画にたくさん描かれている馬の姿でして、やはり高句麗の渡来人が日本にやってきて母国の騎馬の馬に乗る習慣を埴輪で表現していると、そのようにしか考えられないんですね。これは6世紀末の埴輪です。
今、酒巻14号古墳の埴輪は国の重要文化財になっていますが、間もなく国宝になるんだろうと言われています。行田市郷土博物館に行くといつでもご覧になれますので、是非皆さん見に行ってください。
他にもですね、古墳時代には額に白毫という、仏教徒の方が、今でもインドの女性などがおでこにいろんな色で仏様と同じ毛の渦を表現する丸い絵を書きますけれども、白毫を表現した埴輪ですとか、あるいは朝鮮半島の食器、今でも皆さんが焼肉屋さんで食べるナムルとかビビンバで使う金属製のお椀がありますよね。ああいうものが6世紀、7世紀の古墳からもたくさん出ています。
ですから、正式に渡来人がやってきたということは、かなり後になりますけど、大勢の人が海を渡って朝鮮半島から日本列島にやってきていたということは十分考えられますし、日本列島からも大勢の人が朝鮮半島に渡っていたと思われます。
『続日本紀』に書かれた高麗郡、新羅郡
そのぐらいのところが前史なんですけども、『日本書紀』あるいは『日本書紀』に続く奈良時代の記録は『続日本紀』と書きまして、「しょくにほんぎ」と読むんですけれども、そこには先ほどの武蔵野国の高麗郡、新羅郡に関する2つの重要な資料が載っています。
まず1つが霊亀2年(716)5月、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人、1799人をもって武蔵国に移して初めて高麗郡を置くという記録があるんですね。
駿河は静岡県の東部、甲斐は山梨県、相模は神奈川県、上総、下総は房総半島、常陸は茨城県、下野は栃木県ですね。その7国の高句麗の人たち、1799人、非常にリアルな数字ですよね。2000人と言ったり、あるいは1800人と言ってもいいんですが、これをちゃんと1799と書いているのは、これが律令国家の文書主義ですね。非常に正確な記録が社会で尊重されていた時代だということです。
ここに出てこない関東地方の国としては埼玉県と群馬県が出てこないんですが、埼玉県は当然、新たに高麗郡が作られた国ですから出てきません。市町村名で言うと日高市には、「曼珠沙華の花が秋になると真っ赤に咲きました」とよくニュースでやる巾着田や、高麗神社という、もうまさにこの高句麗の人を祀った神社もあります。すぐお隣の飯能市にも渡来人の足跡がたくさん残っていますが、この埼玉県の日高市や飯能市一帯がこの高句麗の人たちが集まった場所なんですね。ですから、そこには元々いたかもしれませんし、先ほどの7つの国には武蔵の国は入っていません。
それから、群馬県にはすでに大勢渡来人がいたんですが、なぜ入っていないかというと、実は群馬県にはもう渡来人が住んだ郡が先にできているんですね。これはユネスコの世界記憶遺産になった上野三碑(こうづけさんぴ)という山上碑(やまのうえひ)、多胡碑(たごひ)、金井沢碑(かないざわひ)という、3つの石碑が残っているんですけど、この多胡碑がある多胡郡はおそらく渡来人の郡だと言われています。おそらくここは高句麗、新羅あるいは百済の渡来人が混在していたんで一国の名前を名乗らなかった、多胡という名前の郡だったという風に考えられています。
多胡というのは渡来人が多く住んだ地名として全国に残っていますが、皆さん思い当たりますか。静岡県の田子浦とかですね。あるいは千葉県に多古町っていうのがあったりするんですけども、この多胡っていうのは渡来人が多く住んだ地名として今でも全国に残っています。ですから、群馬県の渡来人は武蔵にやってこなかったんですね。
いずれにしても、716年に今の日高市や飯能市あたりに高句麗の渡来人が1799人集まってできた、高麗郡という郡ができたという記録が残っているわけです。
もう1つ、今度は天平宝字2年、758年の8月癸亥条の続日本紀の記事ですけども、先ほどの高麗郡ができてからちょうど42年後になるんですが、次のような記録が載っています。
「帰化の新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移す。ここにおいて初めて新羅郡を置く」と。今度は人数が少ないんですね。お坊さんが32人、尼さんが2人で、これで34人。さらに、一般の男性が19人と女性が21人で合わせて40人ですから、総勢74人の人がこの武蔵国の新羅郡を作ったという、そういう記録なんですね。
これは今のどこに当たるかと言いますと、埼玉県の新座市、志木市、朝霞市、和光市の4市あたりがこの新羅郡の場所だと言われています。関連する地名も多く残っていますし、実際にこれを裏付ける考古学的な発掘の成果もあり、最近分かってきました。
面白いのは武蔵国の「閑地」。これは空き地という意味になります。それまで先住の人がいなかった。新座市っていうのは江戸時代に玉川上水を分水して野火止用水という用水路ができてから初めて村がたくさんできたようにですね、奈良時代どころか江戸時代まで人が暮らさなかった場所なんですけれども、そこにですね、やはり関東地方各地からの渡来人が大勢やってきて、ここには新羅の渡来人がやってきて新羅郡を作ったという記録があるんですね。
ですから、この『日本書記』に続く『続日本紀』という資料の記録から、1つは、716年に高句麗からの渡来人が集まってできた高麗郡が今の日高市、飯能市あたりにできて、さらにその42年後の天平宝字2年、758年に今の新座市、朝霞市、和光市、志木市あたりに新羅の国の渡来人が70数人やってきて新羅郡を作った、こういうことが文献資料から分かっているんですね。
それでは、なぜこういう人たちがここに移り住んで、なぜ外国の国名をつけた郡ができたのかということについては、次でお話ししたいと思います。
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日本古代史の専門家が、研究の最前線を紹介する「謎解き古代史」。記事と音声でわかりやすく解説するシリーズ「今知りたい古代史の謎」、今回は「古代武蔵国の渡来文化」を紹介します(全3回)。
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