乃至政彦『歴史ノ部屋』。今回は『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』を共著した高橋陽介氏と「関ヶ原合戦」をテーマに対談。昨年10月、両氏は関ヶ原を歩いた。そこで第4回からは「関ヶ原を歩く」をテーマに、現地での印象と研究の両面から「関ヶ原合戦」を語る。今回は話題沸騰中の「玉城」、そして西軍の大将は誰かについて。

玉城を歩いて(配信内容一部抜粋)

乃至政彦(以下、乃至)乃至政彦と高橋陽介、共に関ヶ原を歩きました。そこで今回は「関ヶ原を歩く」というテーマでお話しさせていただこうかと思います。

 10月の下旬、暦の上では関ヶ原合戦と重なる時期に多くの方と一緒に史跡をみせてもらいました。

 まず真っ先に行くべきところは玉城。今、注目の場所ですね。

 あれは千田嘉博先生(城郭考古学者)がメインで注目されているんでしょうか?

玉城(たまじょう)豊臣秀頼を迎える山城だったという説がある。

高橋陽介(以下、高橋)そうですね。僕の知っている限りでは千田先生が、玉城に豊臣秀頼を迎えるつもりだったという説を紹介してくださって。それで大きな反響を呼んでいる。

乃至 たしか秀頼はまだ7歳ぐらいですから、意思があるかどうかは当時の感覚でも難しい。

 しかも秀頼の馬廻衆は、秀頼は会津攻めに参加しないということで意見がまとまっていたらしいですね。

 実際に玉のお城の現地を歩いてみて、どのような印象をもちましたか?

高橋 最初に玉城に関する情報を出したのは中田正光先生(城郭研究家)だと理解していまして。中田先生は玉城について、陣地自体は旧帝国陸軍の高射砲跡だと。

 関ヶ原合戦が始まった当時は付近の百姓が逃げ込む場所っていうことを説明で聞いていたものですから。陣地自体も陸軍の高射砲跡だろうなって現地に行く前にはそう考えていました。

 ただ実際に行ってみるとやはり千田先生がおっしゃる通りに、戦国時代に大きく手を加えられた陣城だなという感想をもちました。

 もちろんその陣城の跡に帝国陸軍が手を加えていると思いますけど。…続きはフルバージョンを✓...