折茂武彦(おりも・たけひこ)B.LEAGUE(B1)レバンガ北海道の代表取締役社長。1993年にトヨタ自動車(現アルバルク東京)でキャリアをスタートし、2007年にレラカムイ北海道へ移籍、その後経営難によりチーム消滅。2011年にレバンガ北海道を創設し、選手兼代表を務める。2019−20シーズンで引退した。190センチ77キロ。(写真:花井智子)

 帰化選手を除く日本人初の10000得点や日本代表で活躍し、また所属したB1リーグレバンガ北海道の創設者であり社長としてもバスケットボール界を牽引し続けた折茂武彦。

 2年前に2019-20シーズン限りでの引退を発表し、花道を飾るはずだったラストイヤーはしかし、現役27年の中でもっとも苦しい1年となった。その理由は?それを救った盟友とは?

 昨年10月に上梓し話題となった初の著者99%が後悔でも。には、バスケットボールから学んだこと、やんちゃすぎる半生、そして何より経営者として会社の立ち上げから現在に至るまでの壮絶な日々がある。

 そこで初めて記された、最後の1年。

試合に出られない初めてのシーズン

 試合に出られない。出ても明らかに勝敗が決した場面での出場……。現役27年目、「引退のシーズン」に初めてぶつかった現実。

 これまでも、うまくいかないシーズンはあった。しかし、それは試合に出た上で結果を残せなかったという話だ。試合にも出られない、数字も残せないラストシーズンとは雲泥の差だ。

 アスリートもひとりの人間だ。そこには感情があり、思いがある。当然、わたしもそうだ。

 27年目にして、コートに向かうときのメンタルが一番きついシーズンとなった。

 病気が発覚したとはいえ、例年と変わらない量のトレーニングをこなし、ケガをしているわけでもない。もちろん、自分の力不足なのだが、「勝負さえさせてもらえれば……」という自信は一切消えていない。だからこそ、現役を続けているのだ。

 気持ちのコントロールが利かなくなっていた。

 こんなときに相談できる相手は、ひとりしかいなかった。彼の答えが欲しかった。

 佐古賢一(ケン)に電話を掛けた。日本バスケットボール界のスター選手。同い年で日本代表をはじめ長い間、コートではライバルとして、私生活としては友人として付き合った「盟友」である。

盟友からの叱責

「チームに必要とされてない」

「正直、キツイ」

「もう、辞めようと思う」

 正直に気持ちを打ち明けた。

 聞いていたケンが出した〝答え〟という名のパス。さすがはナンバーワンのポイントガードという的確さだった。

「オマエ、俺を見ててカッコ悪いと思ってた?」

 ケンも引退前は出場時間が限られていた。5分程度しか出場できないこともあった。

「それでも俺は、その5分のために毎週、準備したんだよ」

 カッコ悪いと思ったことなどなかった。

 さらにケンは、「確かに、試合に出る上で覚悟は大事なものだと思う」と、それが定まらないわたしの心境に理解を示しながらも、「辞めるのなんて、いつでもできる」と続けた。

「オマエには、今シーズンを続ける責任がある。俺は折茂のファンとして、レバンガのファンとしてオマエを見に行く。そしてそれは俺だけじゃない。北海道には、日本には、オマエを応援している人がたくさんいる。だから、やっぱり責任があるよ。そういうものを背負っているからこそ、レジェンドなんだと思う。だからダメだよ。最後までやる責任があるよ」

 彼にしか言えない言葉だった。気持ちが翻った。この言葉がなかったら、わたしは間違いなく途中で辞めていたと思う。

 ケンがいてくれて、本当に良かった。

 感慨に浸るわたしに、彼はさらなるダメ出しを続けた。昔から、わたしが嫌がるようなことでも、遠慮なく言ってくれる。だから彼に相談するのだが、今回もそうだった。

いまのオマエ、全然ダメ

「あと、いまのオマエ、全然ダメ。真ん中に座れよ、真ん中に」

 ベンチの端でつまらなそうに戦況を見つめているわたしに対してのダメ出しだった。

折茂武彦・著99%が後悔でも。

「みんなオマエのこと見てるよ。選手も、ファンも。試合に出ようが出まいが関係ないんだよ。オマエの影響力はでかいんだから。チームメイトのナイスプレーに立ち上がって喜んだら、それだけでチームも客席も勢いづく。

 それがチームってもんじゃないのか。俺はどんなときもベンチの真ん中に座ってたよ。だから、そんな顔して端っこに座ってちゃダメ」

 めちゃくちゃ怒られたが、ぐうの音も出なかった。

 この日を境に、わたしは最後までやり抜く決意を固めた。

 ベンチの位置は、いきなりは不自然なので、少しずつ真ん中に近づいていこう、と。

99%が後悔でも。折茂武彦・著より再構成)