折茂武彦(おりも・たけひこ)B.LEAGUE(B1)レバンガ北海道の代表取締役社長。1993年にトヨタ自動車(現アルバルク東京)でキャリアをスタートし、2007年にレラカムイ北海道へ移籍、その後経営難によりチーム消滅。2011年にレバンガ北海道を創設し、選手兼代表を務める。2019−20シーズンで引退した。190センチ77キロ。(写真:花井智子)


 B.LEAGUEが開幕、バスケットボールシーズンの到来にちょっとした感慨がある。日本のバスケットボールトップリーグに27年間、実に四半世紀以上「存在し続けた」男がいないシーズンなのだ。

 その男は折茂武彦。2019-20シーズンまでプレイヤーとして一線で活躍し続け、49歳でオールスターMVPにも輝いた「伝説」と呼ばれる存在だ。折茂は同時に所属したB1リーグレバンガ北海道の創設者であり社長としてもバスケットボール界を牽引し続けた。

 昨年10月に上梓し話題となった折茂の初の著者99%が後悔でも。には、バスケットボールから学んだこと、やんちゃすぎる半生、そして何より経営者として会社の立ち上げから現在に至るまでの壮絶な日々がある。本書より、バスケットボールと経営の関係について紹介する。

経営者として私がしてきたこと

 経営者として何かに長けているわけではない。

 思いを伝え、行動し、責任を取る。してきたことを振り返ればそのくらいだ。

 アナログと言われるが、とても大事なことでもある。 レバンガ北海道には横田陽という、わたしの信頼するCEOがいる。わたしと横田の「二頭体制」は2016年に始まった。

 彼は、細かい営業戦略はもちろん、デジタル戦略にも取り組んでいる。おかげで、レバンガ北海道はアナログとデジタルを両軸で回せている。

 昨シーズン(2019-20)、チームは13勝27敗で3年連続の東地区最下位というひどい成績のシーズンを過ごした。ブースターには本当に申し訳がなかったけれど、その一方で、平均入場者数はB1リーグ全18チーム中4位という数字を出すことができた。前年比も約3.5%増えた。

 こうした結果は、学校訪問やチラシ配りといった「人」と直接繫がるアナログな方法と、顧客管理をデータで行なうデジタル戦略がかみ合ったひとつの成果でもあろう。

 人には当然、感情があり、そこに思いや信頼があるときに人は動く。

 面白いもので、これはバスケットボールにも似ている。わたしのバスケットボール、と言ったほうがいいかもしれない。

人並みだった選手としての能力

 
 もう30年近く前のことになるが、日本のバスケットボール界には「花の平成5年入社組」と呼ばれた世代があった。

「日本最高のポイントガード」「Mr. バスケットボール」と言われた佐古賢一、正確なシュートとタフなディフェンスを武器とした後藤正規、「ダイナソー(恐竜)・サム」の異名を持った大型フォワード・阿部理、そしてわたし。中央大学の佐古、日本体育大学の後藤、慶應義塾大学の阿部、わたしは日本大学で、関東リーグは立ち見が出るほど多くの来場者があった。

 実力のみならず個性的なメンバーが揃っていた。

 この時代は年下にも有望な選手が多く、後にユニバーシアード(卒業後2年まで出場が可能な学生の世界大会)での準優勝、31年ぶりの世界選手権出場などを成し遂げたことから、「黄金世代」とも言われるようになった。

 日本バスケットボール史の中で、もっとも〝世界〟に近づいた世代である。

 そんな世代の中でわたしは、日本一の大学を決めるインカレで優勝し、MVPにも選ばれた。

 決してわたしがもっとも優れていた、と言いたいのではない。むしろ、わたしがもっとも「突出したスキル」を持っていなかった。

 謙遜ではない。

 身長は190cm。一般的に見れば、だいぶ高いだろうが、バスケットボール界では平均的だ(例えば、2019年に行なわれたワールドカップの日本代表メンバーの平均身長は199cmだった)。速く走れるわけではない。人よりも高く飛べるわけでもない。ドリブルもパスも人並み。シュートの精度には少し自信があったが、スペシャルな能力など何ひとつなかった。

 高校時代、初めて全国選抜の合宿に呼ばれたとき、周囲とのあまりの力の差にショックを受けたものだ。当時は体格や身体能力がモノを言うインサイドのポジションだったこともあり、まったく歯が立たなかった。

折茂武彦・著「99%が後悔でも。」

 周りは2m近くある選手ばかりで、体も屈強。「これが全国か......」と呆気にとられたことを鮮明に記憶している。

 一緒にプレーした選手から見てもその印象は同じだったようで、佐古賢一(ケンと呼んでいる)はわたしと初めて出会ったときの記憶を「ひょろひょろしていて、まったく目立たなかった」と言っている。

 だが、結果的にはそれが良かった。

 才能も身体能力もなかったぶん、「どうすれば点を取れるか」、ひいては「どうすればこの世界で生きていけるか」を常に考え、実行してきた。

 わたしの代名詞のように言われたスリーポイントシュートも(後述するが、わたし自身はそう思っていない)、大学に入ってから磨いたもので、その裏には「人並み」である自分がこの世界で生き抜いていくために試行錯誤した過去がある。

 そのひとつが「スクリーン」だ。人に動いてもらうことで、「人並み」だった自分が「フリー」でシュートを打つことができる。

 人がいて、初めて成立するもの。バスケットボール選手としてのわたしの人生であり、経営者として決して忘れることのない哲学だ。

99%が後悔でも。折茂武彦・著より再構成)