大人気シリーズ「謙信と信長」もうすぐ完結。

戦国最強武将の「知られざる」戦い。一次資料をもとにその姿を解き明かす大人気シリーズ。

ここまでのあらすじ

『謙信と信長』目次 

【最新回】―(30)長篠合戦とその勝因
 ・関東への意欲衰えず
 ・第三次織田包囲網と武田の後詰
 ・武田勝頼の「一動」と長篠城
 ・織田信長の戦意
 ・勝頼の移動と信長の布陣地
 ・長篠の決戦開始
 ・敗北の理由は別働隊
 ・謙信、挟撃要請に応答せず
長篠城跡 写真/フォトライブラリー

関東への意欲衰えず

 天正二年(一五七四)は関宿城の後詰に出馬して城内に兵糧を輸送しようとしたが、輸送担当者が増水した利根川を越えられなかった。しかも氏政と決戦間近まで行ったが、これを思うように果たせなかった。謙信はこの失敗を「謙信ばかもの」と嘆いた(『上越市史』一二三四号)。

 地形の変化で当時の形状を想像するのは難しいが、利根川・渡良瀬川・常陸川が交わる関宿の城は、北条氏康が「一国を被為取候ニも不可替候」と評したほどの重要拠点で、これが失われる軍事的損失は大きかったと見られる。

 このため謙信の関東越山意欲が低下したという意見が学者たちに示され、かつては私も「謙信の関東離れ」を支持していた(乃至二〇一一)。だが謙信は、天正三年(一五七五)四月二四日付で多聞天に捧げた願文で北条氏政のことを「天道・神慮・筋目(を)不弁(わきまえず)」と批難して、「当年中ニ関東如存分之有之而、北条氏政一類退治可申候、」と、北条一族の討伐を宣言しており、これは上杉家臣団も直に読み聞かされていたであろうから、越山意欲は失われていなかったようである。願文を捧げる直前の二月一六日に作られた「御軍役帳」は、これからの決戦に勝利する確度を上げる前準備として、旗本を増強したものと思われる。

 また、この頃、足利義昭が上杉家に、武田と北条と停戦して協力し合って上洛を進めてほしいと打診していたが、同年九月、上杉家臣(河田長親・直江景綱)たちが義昭に、謙信は義昭の提案する「三ヶ国無事之儀」に対し、勝頼との和議には応じるが、氏政との和議には「滅亡」されようとも「御勘当」されようとも応じられないという考えであることを伝えていた(『上越市史』一三一〇号)。

 北条とは決着がつくまで戦い続ける気でいたのだ。

 ちなみに先述の願文において謙信は、氏政が景虎を見捨て、氏康の遺言を無視する形で同盟破棄に持ち込んだと咎め、自身の戦いが公的なものであることを強調している。謙信は、北条軍を打倒しても獲得する地域を私領化する意思はなく、関東諸士の合意を得る形で何らかの新体制を整えるつもりでいたであろう。

 戦勝後、関東の秩序をどう整えるつもりでいたか不明だが、北条家に自身の優位性を立証したあと、妥協点を提示して交渉した上で暫時的に関東不干渉の意向を示し、西進優先で動く気でいたのではなかろうか。妥協点の切り札は、氏政の弟である上杉景虎の鎌倉入りであったかもしれない。

 関東が落ち着けば越中はほぼ平定しており、本願寺との和議が固まれば、加賀の大半も味方となってくれる。すると能登さえ片付ければ後顧の憂いを断つことができる。

 関東と能登、どちらか片方を残していては上洛など不可能である。

第三次織田包囲網と武田の後詰

 ここから織田信長と武田勝頼の長篠合戦に至る流れとその戦い、その影響を見ていこう。

 足利義昭による第三次織田包囲網は、もともと義昭と対立していた勢力をも味方に引き入れ、信長の味方であったはずの毛利輝元も参加させるまでに至った。

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