
地方創生の入門的知識から、課題と対策を検討する集中連載の第5回。
今回は、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科並びに環境情報学部教授であり、小児科医も務める矢作尚久氏による寄稿をお届けする。
矢作さんは医学博士で、現役の小児科医として幼少期から子どもたちの成長を十数万例近く見守りつつ、学生時代に我が国の医療データシステムの礎に貢献してきた。現在は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)で経営戦略やベンチャー論、ヘルスケアシステムデザインの研究や教育並びに大学周辺の「まちづくり」にも携わっている。小児科医と経営戦略の研究教育者という多面的な視点で人が持つ多様な才能を活かす環境づくりの重要性について「大学まちづくり」を論じる。
執筆:矢作 尚久
「大学まちづくり」に欠かせない「発育」という発想
私が活動の拠点としている慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)は、日本で初めてAO入試を導入した学部です。福澤諭吉先生なら今の時代にどんな慶應義塾を立ち上げるだろうか——。
その問いからスタートして、講座制にしなかったり、1年生の秋学期から研究室に入れたり、マルチディシプリナリーに協働しながら新しいプロジェクトを立ち上げていく形にしたりと、繰り返し、繰り返し試行錯誤をしてきました。
そして、「教育とは発育だ」という福澤先生の教えに立ち返り、個の能力を見いだし、キャンパスでその能力を最大化するためにAO入試がスタートしたのです。
私自身、そうした思想に対して期待するところが大きく、現在SFCに携わっています。まだまだSFCも道半ばであり、AO入試の仕組み、先生方の選抜方法等、改善の余地はありますが、諸先輩方の努力の積み重ねにより、よい口コミが伝播して今日のSFCがあることを考えると、「この先生に教わりたい」「こういうことをやってみたい」と思えるようなネットワークを今以上に強固にして、その価値を普及させるのが、SFC教員である私の役目でもあります。
慶應SFCを例に「大学まちづくり」を考えると、大学まちづくりに欠かせないものの1つが「人材」であり、個の能力を最大化する場の入口としてAO入試は一定の機能を果たしてきました。
誤解を恐れずにいえば、テストで高得点を取れるような子どもたちはAO入試を受ける必要はなく、一般入試を受ければいいというのが私の考えです(ただし、一般入試が文字認識力中心であるのは否めず、これもまた偏りがあるのも事実です)。
現実問題としては、オールラウンダーではなく、ある能力において光るものを持っていたり、心の底から情熱を持っている子どもたちを一般入試の評価方法では可視化できないためにAO入試が存在しているのです。
「個の能力」は人それぞれであり、その最大化を目指すのであれば、仕組みのほうもそれぞれの能力に対応した形にすべきなのは当然です。突出した人たちを束ねる高度なオールラウンダーも必要です。
これからは、単なるコミュニケーション能力が高いだけではなく、緻密に正確に論理的に物事を考え、他者を尊重し理解し合える能力を持つ者を評価もしていく必要があると考えています。
また、SFCは開学部以来、卒業生を通じて全国で芽吹いているプロジェクトが多々あり、加えて全国各地と連携したコンソーシアムを立ち上げていることからも、学生が地域とつながり、発育していく場の提供を行なっているという点において「大学まちづくり」の萌芽は生まれつつあると私は考えています。
少し導入が長くなってしまいましたが、大学まちづくりの実践については、田中さんの記事に譲るとして、本記事では、大学まちづくりに欠かせない「個の能力」をいかに最大化させるかについて、日本の教育の歴史や現状等を踏まえながら論じていきます。
大学は自由を獲得する場
私は学生に対して、「何のために勉強をするのか(※1)」を問うことがあります。
さまざまな回答があって興味深いのですが、この問いに対する私の答えは「人間としての自由度を上げる(獲得する)ため」です。
自由度を上げる(獲得する)には、自分の能力を最大化する学びをしていく必要があります。そして、「会社から言われたからやる」ではなく、「自分なりに考えたことを発信して、実行していく」ために勉強してほしい。
しかし現実はそうもいかないようです。
例えば教え子から、「(社会人となって)2、3年、いろいろと(会社や上司に対して)意見具申しましたが、今はもう言わなくなりました」という類のメッセージを受け取る機会が何度もあります。彼らはせっかく自分なりに考えたことを発信して、実行していくために勉強したのに、社会に出ると、それをやめてしまっているのです。
一言でいえば、これは個の能力を最大限発揮する機会が制約されている状況であり、この状況が見過ごされると、企業と人材のミスマッチが今後も起き続けると言わざるを得ません。
そしてこれは、企業の「人事」のあり方にも関わるものであり、その人事につながる直前の大学教育にも関係しています。さらに拡大して考えると、社会に出る前の子どもに教育する最初の存在は親であり、その後、幼小中高を経て大学に入学、あるいは社会に出ていくことを考えると、
「親」→「幼稚園・保育園」→「小学校・中学校」→「高校」→「大学」→「企業」
という一連の教育プロセスの中に再考すべき点が潜んでいるというのが、私の見立てです。
念のためにお伝えすると、責任は企業側だけにあるのではなく、若手が自分の考えを正確に相手に理解できるように伝える情熱量を持続できない何かしらの原因があるとも言えます。
その一つに条件や流行で企業を選んでしまっている、インターンという名ばかりのお客様扱いの中で心地よく選んでいるなども考えられます。会社という組織が社会に対して何を提供しているのかをしっかりと本質を見極めていく能力を備えていく必要もあろうかと思います。
戦後日本の教育観はいかにしてつくられたか
今、私はSFCで教鞭をとっていますが、キャリアのベースは小児科医で、これまでにさまざまな地域で診療をしてきました。
小児科医の診療が他の分野と違うのは、養育者の方の理解と納得がなければ治療できない点です。
例えば、昔は喘息の治療に(最も効果のある)ステロイド吸入薬を使うのに強い抵抗のある人が多く、「私を責めてもいいから、一度試してみていただけませんか」と何度も説得しても、首を縦に振ってくれない養育者の方がたくさんいました。最終的に、その効果を実感した患者さん(カリスママ)の口コミで一気に広まったということがありました。
また、風邪のほとんどはウイルス感染が原因ですから、細菌に効果のある抗菌剤(抗生物質と言われている)を処方しても意味がないのですが、親から「出してもらわないと困る」と(実は地域の医師からも)批判され続けたこともあります。もちろん、細菌感染の風邪にはしっかりと抗菌剤を使います。「あの医者はヤブ医者だ」と言われながら、朝から晩まで根気強く適切に「抗菌剤を処方しても効果はありせん」と丁寧な科学的な説明とともに言い続けると、だんだんと「抗菌剤を処方してほしい」いう声も減っていきました。3年の時間を要しました。
なぜ、このような話をしたかといえば、先述したように、子どもの教育のスタートは「親」であり、子どもの価値観の形成には親の影響が非常に大きいということをお伝えしたかったからです。親世代には、周囲の意見に流されることなく、是非、育児を通じて様々な勉強(ネットや雑誌を捨てて本を読み)し、自信を持って目の前の我が子を観察して導いてもらいたいと思うばかりです。
本連載のメインテーマは「大学まちづくり」ですが、田中さんが寄稿している回でも触れているように、大学は「教育」はもちろんのこと、「経済」、「文化」や「生活」さらには「慣習」など、社会の中で包摂的に、さまざまな課題に取り組める存在になりえます。社会がそうした広い視点で大学を使っていただき、地域社会との連携を通して未来に向けた教育観も一緒に創っていくことができればと考えます。
戦後日本の教育観に関する別の例を挙げましょう。
いつの時代にも、親の多くは子どもに対して「いい大学に入って、安定した仕事に就いて、できれば高給取りになってほしい」と願うもので、例えば、リーマンショックの影響で世界中の国々の経済が大打撃を受けたあと、私たち医者は医学部の人気が高まるだろうと予測したところ、実際にそのとおりになりました。
また、医者の中でも稼ぎにくくてハードな小児科医、産婦人科や外科医を希望する学生は減り続けるだろうと、医者仲間たちと話していたところ、そのとおりになっています。
余談にはなりますが、医者仲間たちとはよくこんな話をします。日本の国民皆保険という仕組みを考えると、優秀な人間こそ経済活性側に進んでもらわないと医療という保険システムは維持できない。医者や医学という職業はある程度優秀である必要はあるものの、患者に最適解を導くという意味では、より創造的活動のできる人材が必要で今の試験を通過する能力の重要性はさほどでもないよね、と。
「いつの時代にも」と書いたように、この傾向が顕著になった1つのピークは、団塊世代の子どもたちが経験した受験戦争にあります。その後、ゆとり教育等、多少の変遷はあったとはいえ、その頃に出来上がった教育観、すなわち「いい大学に入って、いい会社に就職する」という固定概念は、塾産業が後押しするなどの形で今現在も社会全体を覆っています。
つまり、どの能力を備えていると幸せで、自由度の高い職に就けるかではなく、子どもを見ることなくどの結果を備えれば「良い会社に就職できる」という考えに立っています。
ペーパーテストの「受験勉強」だけだと、多様性は失われ、画一化する
受験産業が幅を利かせている現状に対して、「受験対策の勉強だって、やっていて損はないだろう」という声もあるかもしれません。もちろん、勉強とはとても重要なものです。しかし、日常の思考する時間のほとんどを特に「暗記」を中心とした(例えばそれは数学の公式なども含まれます!)現在の「受験用の勉強」には、注意が必要だと思っています。
親の経験から考えるゴールから落とし込んでいった受験勉強のさせ方や環境の押しつけは、子どもの脳内の自由時間(英語ではunstructured activity)を奪い、与えられた環境でしか対応できなくなっていきます。また、優秀な子は簡単にそれをこなすこともできる一方で精神的にストレスになっていく。「教育虐待」とも呼ばれる状態に陥りやすくなります。
小児科医の視点で言わせてもらえば、教育虐待は、身体的虐待に比べて発見が難しく、その分、事件化しているのは氷山の一角であり、表面化していないケースは相当数あると考えるのが妥当です。私の経験だけでも、「いい大学に入学して、いい会社に就職しなさい」「医者になりなさい」「弁護士になりなさい」と言われ続け、精神疾患に陥る子どもをたくさん診てきました。
虐待までいかなくても、「一般的な文字記憶試験」という指標にすべての子どもを当てはめるのは、そもそも合理的ではありません。
子どもには一人ひとりに個性があり、得意なことが違う。にもかかわらず、「試験結果」のみを指標として、子どもたちを教育していくと、試験でよい点を取れる子どもたち、画一化された子どもたちだけが評価されることになり、勉強以外の能力を持った子どもたちは、企業からは見えづらくなり、社会に出たあと、活躍の場を失うことになります。同じく昔の価値観で採用する企業からは、期待する能力を備えずミスマッチが増える傾向にあります。
日本でも今、盛んに「イノベーションが大切だ、そのためには多様性を尊重しなければいけない」と、政府はもとより企業、社会全般に発信がなされていますが、現実社会はまったく逆の力が強く働いていると言えるでしょう。
ここまで親御さんの役割に重点を置いて述べましたが、親とともに子どもたちの教育を担う学校の先生方、もちろん大学で教鞭をとる私たちにも責任はあります。特に、世の中では多様性、ダイバーシティといったキーワードがもてはやされていますが、学校や大学の外の教育の現場でも多分にその反対のことが行われているのが実情です。
もちろん、「学校の先生の負担が多すぎる」という現在進行形の課題は解決しなければならないものです。ただ、ここで私が考えてみてほしいと思うのは、世の中が「多様性」を謳えば謳うほど、現実との乖離が浮き彫りになり、やがては社会的な分断に発展しかねないということ。そして、そのような岐路に私たちは立っているのではないかということです。
事実、小中高、そして大学を経験した子どもたちは、多くの場合、入社試験を経て会社に就職することになるわけですが、多様性、ダイバーシティを謳う企業は数多くある一方で、いわゆる「大学のランク」で学生を選別することが多い。
それはつまり、企業が望んでいるはずの多様な人材と出会う機会が失われ、ミスマッチが発生するのは必然だということになります。
企業の人事の方々も日々ミスマッチの解消に努めているであろうことは想像に難くなく、申し訳ない気持ちもありますが、私は就職を志す学生に対して、企業がアナウンスする内容と実態は必ずしも一致しないことを常々伝えるようにしています。
先に就職した教え子の言葉、「2、3年、いろいろと意見具申しましたが、今はもう言わなくなりました」は残念ながらそれを象徴しています。彼・彼女らが就職した企業はおしなべて、「若手の意見をどんどん取り入れて、企業の成長につなげたい」といったメッセージを掲げているにもかかわらず、実態はそうではなく、若い人たちの能力を最大限に生かすことができていないわけです。
会社の人事が変わらない限りは、大学の教育は変わりません。
大学の教育が変わらない限りは小中高の教育も、親の教育も変わらない。
逆もまたしかりです。
親の教育、小中高の教育が変わらなければ、大学の教育は変わりませんし、大学の教育が変わらなければ、会社の人事も変わりません。
地域社会で自分の人生観、教育観に自信を持つところから始める
先述しましたように、学習塾産業が牽引する学歴社会においては、「試験で点数を取れる」という画一化された基準に基づく人材が主に集まる傾向があります。その一方で、創造的な活動や独創的な発想が得意な人材を組織的に見つけ出し、登用する仕組みが不十分なため、人材マーケットでそうした多様な能力と出会う機会が限られてしまっているのが現在の日本の状況です。
企業や自治体の組織には緻密な業務遂行が得意な人材も、創造的な活動が得意な人材も、どちらも必要です。ですが、現状は、特定の評価基準で測られる能力を持つ人材に偏ってしまっている可能性があります。
また、国の予算が動く仕組みにおいては、創造的な活動が得意な人よりも、これまでの延長上の企画で耳なじみの良いプレゼンテーション能力に長けた人に資金が流れやすいという側面も見られます。
幼青少年期と大人社会との間に位置する大学が積極的に関わりながら、「大学まちづくり」のような地域課題の解決に取り組む中で、この人材のバランスを少しずつ見直し、多様性を尊重する社会に方向を是正していく取り組みに貢献していくだけでも、今とはまったく違ったアイデアが現場から生まれ、創造的な活動(※2)につながる可能性は十分にあるのではないかと考えます。
少子高齢化が進む理由は、そういう自分が接してきた社会に、誇りを持てないという一面も影響を与えている。そう感じざるを得ない現状に危機感があります。
よく「教育は国家100年の計」と言われます。言葉のとおり、成果が出るまでにおおよそ三世代かかるとすると、今から始めるなら、私たちの孫の世代でようやく形になるくらいの長期的な視点で考えていかなければなりません。
いつ始めても三世代、つまり100年がかかるのであれば、今始めるべきです。さて、志のある人たちだけでも、できるところからスタートするしかなく、その1つのチャレンジが、本書のテーマでもある「大学まちづくり」なのです。
(第六回に続く)
1974年米国パロアルト生まれ。 慶應義塾大学医学部卒業、同大学院博士課程修了、小児科専門医、指導医。 横浜市民病院、国立成育医療研究センターを経て2017年より慶應義塾大学准教授、2022年より現職。 東京大学医療経営人材育成講座修了(首席)後、ハーバードビジネススクールMHDにScholarshipとして招聘され修了。 デジタル庁デジタルヘルス統括、社会保険診療報酬支払基金特別技術顧問CIO 等を歴任。 全国の医療情報を統合可能とする世界初のClinical Data Management Networkを設計、稼働。 一貫して病態変化予測に基づく自動診断・治療支援技術等のR&Dに従事。
