6歳の秀頼を残したまま、太閤豊臣秀吉が薨去。秀吉の遺言通り、家康は伏見城に、利家は秀頼に扈従し大坂城に入る。その二頭政治体制を支える一方の柱、前田利家が翌年死没した後で家康は豊臣政権の中にある亀裂を見つけていた。

監修・文/小和田泰経

『絵本太閤記』五大老の要・秀頼傅役だった前田利家秀吉は家康、利家の2頭体制で基本政策を定め、 五大老を監視しながら五奉行が実務を遂行する政権構想を抱いていた。その前田利家の死で 状況は変わっていく。

政略結婚で味方を増やす家康。関東の独立が警戒されていた

 慶長3年(1598)に体調を崩した秀吉は、遺言を残し始めている。このとき秀吉は、諸大名が縁組をするときは合議のうえ裁可すべきとし、家康個人に対しては3年間の在京を義務づけ、仮に江戸へ戻る必要ができたときには、子の秀忠が在京しなければならないとした。秀吉の警戒は、家康が政略結婚によって味方を増やすことと、関東で独立することにあったらしい。

 秀吉の病状は快復せず、8月18日、伏見城で亡くなった。死因は、労咳・喘息・腎虚など諸説あるものの、はっきりとしない。秀吉の死からまもない9月3日、五大老と五奉行の間で、秀吉の子秀頼に対する忠誠を誓う起請文が交わされた。この起請文は、豊臣政権における政策は合議によって決まることが確認されており、のちに「十人連判誓紙の筋目」と呼ばれるようになる。

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