甲子園は二回戦へと突入した。優勝候補の横浜対昨年覇者の沖縄尚学は大きな注目を集めたが、今大会は選抜ベスト4に加え、常連校が出場を逃している。

 そのひとつが昨年まで夏の福島大会で19年で18回の優勝、甲子園出場を果たしていた福島・聖光学院。強豪校はいかにして作られたのか。

 常勝軍団を作り上げた指揮官・斎藤智也が赴任したのは約40年前。その日から現在に至るまでを詳細につづった田口元義の重厚な新刊ノンフィクション『負けてみろ。』の一部を紹介する。

甲子園が開幕。高校野球は大きな転換点を迎えるが、関わる選手、指導者の熱量は変わらない。なぜ勝利を目指すのか。チームはどうまとまるのか、選手の...続きを読む

一九八七─ 斎藤智也の赴任

 JR福島駅から東北新幹線で仙台方面へ向かいほんの数分もすれば、右手に聖光学院の野球場を望める。「新幹線から聖光のグラウンドを見ました」。近年では知人からそんな報告をよく聞くようになった。

 聖光学院は福島県伊達市にある。「独眼竜」で知られる伊達政宗の祖先が、平安時代から360年もの間、統治していた地であり、明治時代の廃藩置県で福島県が誕生する以前から伊達という地名は存在していた。2006年に近隣の町と合併し伊達郡伊達町から伊達市となった。名産は梨やぶどう、桃など果物が中心で、干し柿の一種であるあんぽ柿は生産量日本一を誇る。

 聖光学院が誕生したのは1962年。キリスト教の理念を掲げ聖光学院工業高校として設立された。この頃の工業高校と言えば、不朽のラグビードラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなった京都府の伏見工業高校(2024年に閉校)のようにやんちゃな生徒が多く、いい印象を持たれなかった。当時の聖光学院もまた、気性が荒い生徒が多かった。

 学園にその名残があった1987年。斎藤が赴任した。

「負け犬の俺にとっちゃ、のし上がるのにちょうどいい場所かもしんねぇな」

 1963年に福島市に生まれた斎藤は、文武両道を地で行くような優秀な青年だった。中学校での成績はほとんどトップ。野球部でも主将を務め、試合になれば『エースで4番打者』を担う中心選手だったため、校内では一目置かれる存在だった。

 斎藤が教師としての道を志したのもこの時期で、中学の体育教師だった原一行に多大な影響を受けた。学校の人気者である斎藤であっても贔屓することなく、少しでも校則を破ろうものならば鉄拳でもって戒める。ダメなものはダメだと、妥協は一切ない。そんな昭和かたぎの熱い教師だった。

「かっこいい先生だなぁ」。

 生徒に体当たりで教えを説く原の教育、「体育の先生」という職業に斎藤は惹かれていった。中学時代に成績上位をキープしていた斎藤ではあったが、「もっと勉強を頑張らないと」と受験勉強に励み、地元で「フクコウ」と親しまれる県下随一の進学校、福島高校の合格を勝ち取った。そして、同校出身で1978年に郡山北工業高校を初の甲子園へと導いた加藤仁一郎が監督に就任したことで、教師への思いはより強固となる。

「甲子園に行ったら、筑波大学の推薦が取れるかもしれないぞ」。加藤の言葉に高校生だった斎藤の胸が膨らみ、希望が生まれる。さらにこの代は、後に投手として慶應義塾大学から熊谷組を経て西武ライオンズに入団することとなる鈴木哲など有望な選手も集まっていた。

 斎藤も主軸打者でありながら、一時は鈴木からエースの座を奪うほどの力を身に付けた。福島高校は甲子園に出場した経験はないが、機運は高まっていた。ちなみに、当時の聖光学院はというと初戦敗退が当たり前で、三回戦進出がやっと。斎藤いわく、「いいピッチャーがいたり、力がないわけじゃなかったと思うけど、眼中にないチーム」だった。

 斎藤が高校三年の夏、福島高校は準々決勝で敗退した。この時点で斎藤が望んでいた筑波大学への進学は消滅するが、「体育の先生となり、母校を甲子園に連れて行く」ということが、絶対的な目標となっていた。

「こっから、負け犬根性だった俺の、遠回り人生が始まるわけだ」

 そう言って、斎藤は少し恥ずかしそうに若かりし頃の自分を振り返っている。

 高校を卒業後、それまで優等生だった青年の姿は様変わりした。福島大学の受験に失敗し、地元の予備校に通うこととなった斎藤は、頭にバンダナを巻きシャツにチノパンといった、当時の流行スタイルに身を包み、受験勉強そっちのけで遊びほうけた。

 一年の浪人を経て臨んだ二度目の福島大受験。斎藤は再び不合格となった。ただし、目標はあくまでも教師になることだ。高校時代の恩師である加藤に相談すると、「仙台大学に行けば教職は取れる。家からも通えるし、私立だが学費もそこまで高くないだろうから親御さんも許してくれるんじゃないか」と助言を受けた。仙台大学には体育学科はある。だが、この時は無名で野球部だって強豪ではない。

 斎藤が逡巡する。「は? 仙台大って」。田舎の人間はとかくブランドを気にしがちだ。フクコウから福大は福島県のエリートコース。斎藤にもそんな想いはあったが、重要なのは「体育の教師になること」だ。目標を達成するために手段を選んでいる時間はなかった。「仙台大に行く」と両親を説得し、了解を得た。

 

 

田口元義・著

2019年に発売された隠れた名作、増補新装版として復刊。95連勝、13年連続甲子園出場、春夏甲子園31勝……誰もが知る高校野球の名門校・聖光学院。福島で圧倒的な力を示すチームを率いるのは斎藤智也。人間を大事にし、全身全霊でぶつかる熱量を持った指導は唯一無二。部長・横山は、戦略家として次々と新しいシステムを提案し続けている。聖光学院を取り巻く人々の高校野球ひいては選手個人への思いには、どこにもないオリジナリティと、心を打つ物語が詰まっている。斎藤・横山両指導者だけでなく、元監督から現役の選手まで、圧倒的な取材量でまとめあげた一冊。新たに2019年から現在までを大幅加筆している。

 


 浪人生活で狂った人生の歯車、心の隙は、大学生になったからといって簡単に修復できるものではない。仙台大に入学し、野球部に入部届を提出してから、斎藤は二週間ほど登校を拒否した。

 大学に行くふりをして遊びに行くありさま。「学費を払ってくれる親に顔向けできないし、大学だけは四年で卒業したい」という反省から意を決して登校し、野球部の練習にも参加するようになったわけだが、心は弛緩したままだった。

 丸刈りという野球部の規則に反し、当時流行だった近藤真彦のヘアスタイルでグラウンドに立つ。禁止されていた車で登校する。いつの時代も、そういった〝はみ出し者〟は他者から目をつけられる。斎藤の大学時代は鉄拳制裁という名の指導で先輩から仕打ちを受ける。一年間はそんな日が続いた。

 コンプレックスだけが増長していく。頭では分かっていても、当時の斎藤には真正面から受け入れられる度量が足りなかった。

「あの時の俺は、『見てろよ、こん畜生!』って反骨心じゃなかった。『おめぇらと一緒にすんな』ってプライドが邪魔していた部分はあったね」

 その感情とは裏腹に、同級生たちとフランクな会話を重ねていくと、彼らは本音で話してくれた。入学当時の斎藤のように部の規則に反すれば怒り、学生らしいバカ話にも飽きずに付き合ってくれた。

 甲子園と有名大学への進学が目標だった斎藤にとって、それは今までにない不思議な感覚だった。閉ざされていた心の扉が解放されたような気持ちになる。

「こいつらとは本物の人間関係を築けるかもしれない」

 プライドが消えていく自分に気づく。大学二年になる頃には、仙台大が居心地のいい場所となっていた。野球部でも二年生の春季リーグからレギュラーに抜擢され、出場する試合が増えた。

 研究熱心だった斎藤は、広島東洋カーブの山本浩二やロッテオリオンズの落合博満ら、当時のプロ野球界を牽けん引いんするスター選手の打撃フォームなどを雑誌や書籍で貪るように読み、練習に反映していった。

 斎藤は変わった。あれだけ卑屈だった人間が過ごした大学時代は、指導者となってからの「人間臭さ」を解放する、いわば原点となった。

「もし、福大や筑波に合格していたら、自分の器を理解できなくてプライドがもっと増幅していった可能性はあるよね。仙台大で仲間たちにたしなめられたこともあったけど、俺はあそこに行って『間違っていた』って変わることができたんだよ。学力の高さだの、『どの大学を卒業しました』とかさ、そういうのを振りかざしたところでその人の人生が決まるわけじゃないってことを教わったよね」

 同級生が就職活動に躍起となっていた大学四年のある日、友人から声を掛けられた。「斎藤、就職課の掲示板、見た?」

 一度も見たことがなかった。少し前に受けた福島県の教員採用試験は不合格だった。しかし、斎藤にとって体育の教師になることが絶対的な目標だ。来年こそその難関を突破したいと考え、講師として県の登録は済ませていた。だから、一般企業への就職は考えられなかったし、そこに私立高校の募集が掲示されていることなど想像すらしていなかった。

「それを教えられたっていうのが運の尽き……いや、運命の分かれ道だったなぁ」

 その場を振り返る斎藤が遠い目を向ける。仙台大に教員の募集を出していたのは、聖光学院だった。しかし、斎藤の心は躍らなかった。同級生が語り掛ける。

「体育教師の採用案内だって。お前、なりたいんだろ?」

「聖光? ああ……なりたいけど、あそこはなぁ……」

 その校名に拒否反応があった。現在でこそ普通科や進学コースが設立されてはいるが、当時は工業科がメインで進学より就職を重視しているような高校だった。

 野球部にしても母校と比べれば実績ははるかに劣る。体育の教員にはなれるだろうが、公立校の教師、いわゆる公務員を目指す斎藤にとって、聖光学院は眼中になかったのである。

 斎藤が意を決して聖光学院の採用試験を受けたのは、当時、同校で野球部の監督を務めていた、遠藤直仁の存在が大きい。彼は福島商業出身で甲子園出場経験があった。斎藤の中学在学中に教育実習生として赴任し、交流があったことで話を聞く機会に恵まれたのだ。

「教員採用試験に合格して公立校の先生になるという算段が付くなら、その道を進んだほうがいい。でも、聖光に来れば体育の先生になれるし、野球部の指導者だって今は俺しかいない。斎藤が来てくれれば助かるよ。ただ、私立は大変だよ。学校というよりは企業みたいだから」

 遠藤は言った。彼は東北学院大学で教員免許を取得したが、県の採用試験で現実を知り聖光学院に来た。その経歴を知った斎藤は、自らに決断を迫る。聖光に行くべきか? 何年もチャレンジしてでも公立の教師になるべきか?

「聖光だな、行くとしたら」

答えは、意外なほどあっさりと出せた。

「最初に県の採用試験を受けた時だって、『死に物狂いでやったのか?』って聞かれればそうじゃない。大学での俺は〝負け犬〟だった。聖光で体育の教師になれて、野球部の指導もできるって言われたら、普通に受け入れられた。目標は達成できるわけだ」

 聖光学院の教員採用試験の倍率は二倍以上だった。そこで合格した斎藤は、「俺は地元だし、誰かが学校に口利きしてくれたのかな?」と訝しがったが、後に聞いた話によると、厳正なる審査の結果、君を選んだと、学校側から言われた。

〝負け犬〟は、ようやく汚名返上の機会を勝ち取った。

95連勝、13年連続甲子園出場、春夏甲子園31勝……。誰もが知る高校野球の名門校・聖光学院。聖光学院と斎藤智也が紡いだ約30年の歩み