甲子園が開幕。高校野球は大きな転換点を迎えるが、関わる選手、指導者の熱量は変わらない。なぜ勝利を目指すのか。チームはどうまとまるのか、選手の育成とは……惜しくも連続甲子園出場が途絶えた福島県の名門高校・聖光学院は、選手たちとの対話に力を入れ続けてきた。
名将・斎藤智也が赴任した約40年前から現在に至るまでを詳細につづった田口元義の重厚な新刊ノンフィクション『負けてみろ。』からそのヒントを探る。
「指導者として見向きもされず」部長として仕えた12年間
斎藤智也に迷いはなかった。どちらかと言えば「またか」と独りごちるような、そんな感情だった。
保健体育の教員として、福島県の私立聖光学院高校に採用されてから12年間、野球部の部長として雌伏の時を過ごした。
私立の学校とは企業のようなものだ。公立とは違い、学園の創設者が人事や方針などの全権を担う。つまり、学校側の都合でひとりの教師を自由に動かすことができるわけだ。
赴任した当初の斎藤は、23歳という若さもあったし、聖光学院は県大会の一回戦で敗退することも珍しくないような実情もあって、「すぐに野球部の監督になれる」と信じて疑わなかった。
それが、いざ蓋を開けてみれば学校側から「若造」扱いされ、指導者として見向きもされなかった。感情的になり、反発したことも一度や二度ではない。そのたびに「ここは、私学は、学校じゃないんだ。会社なんだ」と、自分に言い聞かせながら部長として陰から野球部を支え続け、気がつけば12年の歳月が過ぎていた。
1999年9月。斎藤は36歳になっていた。ようやく野球部の監督という役割を手にできたわけだが、喜びの感情はほとんどなかった。
「そこまで要求するもんかね?」
学校側から突き付けられた条件は、無理難題だった。
「三年以内に甲子園に行け。それができなければクビだ」
野球を始めてから一度も全国の舞台を経験していない斎藤にとって、高校野球に携わる誰もが夢見る甲子園は想像することのできない、それこそ天上の世界だった。
部長時代の12年の間に仕えた監督のなかには、指導者としてチームを全国大会へと導いた実績のある者もいた。その彼らでさえ果たせなかった甲子園出場を、監督となったばかりの男がそうやすやすと成し遂げられるはずがない。それは、斎藤自身が自覚していたことだった。
過酷な現実に直面した斎藤は、無意識に自らを内観していた。聖光学院に赴任してからの歩みを振り返る。
自分は監督になれると思ってこの学校に来たけどなかなかなれなかった。学校からは若造扱いされて毎日のように小言を受けてきたけど、なんだかんだ俺を見捨てることはなかった。これまで何人かの監督のもとで部長をやってきたけど、聖光に来なかったら出会えなかった人も多くいた。
練習試合で700試合くらい審判をやったことで、相手チームの監督の人間性も自分なりに解釈できるようになった。嫌なことばっかりだったし、学校を辞めたいとも思った。でも、監督になれたってことは、俺が聖光学院に縁があったってことなんだ。すげぇ遠回りした。でも、遠回りしたからこそできることもあるんじゃねぇかな?──。
そして、新任監督は決意を固めた。
「三年で勝て……わかったよ、勝たせるよ」
念願の監督となった斎藤にとって、それは究極とも言える挑戦だった。
当時の福島県は、1970年代から80年代にかけて県の高校野球をリードしてきた公立校の磐城高校や福島商業、私学の学法石川高校らがおり、斎藤が監督になる前年には、日大東北高校が福島では史上初となる三年連続での夏の甲子園出場を決めていた。
当の聖光学院の立ち位置と言えば、「蚊帳の外」。斎藤が部長時代の95年に同校初の準決勝進出を果たすなど、県ではそれなりに勝てるようにはなっていたものの、毎年のように優勝候補に挙げられる高校かといえば、そうではなかった。
なにより、斎藤には監督の経験がない。三年以内に甲子園に出場できるという自信や裏付けがないことは、誰よりも理解していた。
12年間の部長生活で斎藤は、数多くの練習試合で主審を務め、当時から野球関連の書籍や雑誌などを貪むさぼるように読んだ。野球への造詣を深めていただけに、試合になれば相手チームの野球や指導者の立ち居振る舞いがどうしても気になる。
無作為に選手を怒鳴り散らす監督を横目で見ながら、「ただの個人的なストレス発散じゃねぇか」と教育者の目線で首を傾げ、大量リードを奪われベンチの奥で座ったままの監督の姿を捉えれば「その諦めた顔を選手は見ているんだよねぇ」と客観視する。それらを、斎藤なりに「監督としてあるまじき振る舞い」として反面教師にした。
もちろん、選手の士気を高めるような言葉をかけ、選手たちが生き生きとプレーしているチームの監督など肯定的な視線を送る指導者もたくさんいた。そのすべてが斎藤にとっての財産であり、「監督になる上で、覚悟を決める上で、審判をたくさんやったのは本当にデカかった」と回顧している。
2019年に発売された隠れた名作、増補新装版として復刊。95連勝、13年連続甲子園出場、春夏甲子園31勝……誰もが知る高校野球の名門校・聖光学院。福島で圧倒的な力を示すチームを率いるのは斎藤智也。人間を大事にし、全身全霊でぶつかる熱量を持った指導は唯一無二。部長・横山は、戦略家として次々と新しいシステムを提案し続けている。聖光学院を取り巻く人々の高校野球ひいては選手個人への思いには、どこにもないオリジナリティと、心を打つ物語が詰まっている。斎藤・横山両指導者だけでなく、元監督から現役の選手まで、圧倒的な取材量でまとめあげた一冊。新たに2019年から現在までを大幅加筆している。
「三年で甲子園」を課された、新米監督の運命的な出会い
福島でナンバーワンになる。甲子園を経験した監督をも超越した男にならなければ、彼らを超えることはできない──。問答を繰り返す斎藤に、ある言葉が舞い降りた。
「我、いまだ木鶏たりえず」
中国の故事であるこの一節が有名になったきっかけは、吉田茂や佐藤栄作ら総理大臣の「指南役」として天命を尽くした漢学者であり哲学者の安岡正篤が、不滅の69連勝を成し遂げた戦前の大横綱・双葉山に伝えたことにある。1939年の一月場所、その連勝記録が止まった日に双葉山が安岡に〈イマダモクケイニオヨバズ〉と電報を送ったという。
この時の斎藤は、まだ安岡の存在を仔細に把握していなかったものの、相撲好きであったためこの逸話は知っていた。それがなぜか、監督となり、勝利を宿命づけられたこの時に頭に浮かんだのだという。
だからといって、それが斎藤のなかで甲子園に出られるという絶対的な根拠とはならなかった。
勝てる。あるいは、それに近づけるための裏付け。自問自答を繰り返した斎藤が導き出した答えは、「遠回りの人生」を受け入れることだった。
急がば回れ──斎藤はあえて、歩を緩める決断を自らに下した。
部長時代に培った経験を生かしながら、謙虚に監督業に取り組む。自分も含めチームが成熟していくためには「人間の心を育てなければいけない」という信念を抱き、野球部の部訓、チームスローガンとして「不動心」を掲げた。
しかし、この時はまだ、理念よりも気持ちが先走っていた。志は高く、他の指導者にはないアプローチでチームを勝たせる気概はある。ただ、それを具体的に選手たちに落とし込んでいく術を、斎藤は知らなかった。
その答えのきっかけを与えてくれたのは、部長の横山博英だった。「あいつは人脈を作るプロ。大した男なんだ」と、ある日のエピソードを強調して斎藤は横山に感謝する。
監督に就任して間もない頃。雨の日だった。当時はまだ、聖光学院に室内練習場が備わっておらず、福島市内で唯一、室内練習場がある県営あづま球場の施設を借りて練習を行っていた。この時、斎藤はチームに付きっきりだったが、横山は同じ場所で練習している地元リトルリーグチームの代表に名刺を渡していたのだ。
人の縁とは不思議なものだ。望まずとも、見えない力で引き寄せられる。そして、その人間が後の人生に多大な影響を及ぼすものだったりする。横山が取り持った縁で一席を設けられた斎藤は、そのリトルリーグの代表からこう言われた。
「俺は以前からあなたのことを知っていたよ。いろんな監督さんの下で10年以上も野球部の部長として頑張ってこられたことも聞いている。今まで聖光学院を応援してこなかったけど、そんなあんたが監督をやることになって思うんだ。『この男は何か、大きなことを成し遂げるんじゃないか?』ってね。そういう魅力があんたにはある。だから、お誘いしたんだよ」
人生の方向性を模索していた斎藤にとって、この男との出会いは渡りに船だった。それまでぼんやりとしていたものの輪郭がはっきりする。監督としての使命や理念、教育者としての本望が、どんどん言葉となって溢れ出てきた。
「野球そのものより、もっと根底にあるもの。人間の魂を揺さぶるような強い選手、出家して幾多の荒行をも克服してきた修行僧のような、強い人間を育てたいんです。『メンタルを鍛えたい』とは違うんです。地に根っこを生やした男、チームを作りたい。『福島県のどのチームよりもそこを極めていけば野球が変わる、甲子園にも行けるんじゃないか?』って考えているんです。
野球部の選手たちには『不動心で戦う』とは言っています。おぼろげながら方向性は見えているんです。そのプロセスをどう踏んでいけばいいのか、今の自分にはまだわかりません」
斎藤の熱意と進むべき道がシンクロする。その日を境に、リトルリーグの代表は「指南役」となった。斎藤と横山のもとに数々の書籍が届く。
「あのタイミングで出会っていなければ、三年以内に甲子園には行けていなかった」
それほど、斎藤にとっては運命的な出会いだった。
新米監督の読書は、野球の指導者からすればある種、常軌を逸していた。
「勝つために遠回りをする」と自身に課したはいいが、野球の指導よりも本を読むことに意識を傾けたのである。グラウンドには毎日、顔を出すものの、選手たちが集まり、本格的な練習に入る前のウォーミングアップになっても現れない。1時間半、遅ければ2時間経っても本を読みふけっている日も珍しくはなかった。
それは、斎藤自身、「選手を指導するよりも、俺自身が人間の神髄に限りなく迫るほうが重要だと思った」と、割り切った末の行動だった。斎藤は当時の読書を「体で読んだ」と言った。妥協は一切なかった。(続く)