渡部陽一が撮ってきた「戦場の写真」をベースに、争いの背景、現実とその地域の魅力について解説するコンテンツ、渡部陽一【1000枚の「戦場」】。今回は特別編として、戦場カメラマンの仕事についてインタビュー。渡部氏が個人的に“最も大きい壁だった”と感じている出来事とは?

この記事は【動画】【渡部陽一】世界中から写真を届ける戦場カメラマンの技の内容を抜粋、再編集したものです。

文=シンクロナス編集部

 こんにちは。戦場カメラマンの渡部陽一です。

 約30年間の戦場カメラマンの取材の中で、どれくらい僕自身が回ってきたのか。今、地球上には、様々な判断の規格があるんですけれども、だいたい210の国、地域があります。

 もちろん見方によっては198とか212となるんですけど、だいたい210前後の国や地域のつながりがあります。

 その中で、僕自身はこれまで約130少々の国や地域を回ってきました。

130カ国の国・地域を自分の足で回ってきた

 ユーラシア大陸であったり、中央アジア方面、アフリカ大陸、もちろん中東、アジア全域、ヨーロッパ方面、東欧、もちろんロシア方面のユーラシア、さらには北米大陸、南米大陸、中米、中米の横にあるカリブ海一帯の細々したたくさんの島々の国、さらにはアフリカインド洋、大西洋太平洋方面に点在するたくさんの島々、南大平洋であったり、ポリネシアであったり、メラニシア、さらにはミクロネシア。南極、北極に近い地域もあります。

 

 陸路で転々と回って国の変化を見ていく取材もあれば、ピンポイントで飛行機で飛び込び、そこから陸路で入って取材することもありました。

 130を超える地域を取材していく中で、写真カメラマンとしてシャッターを切り続けてきたのか?

戦場カメラマンとして感じる、最も大きな壁って?

 僕にとって大きな線引き、ひとつの壁がカメラマンとして存在します。それは戦場カメラマン渡部陽一が個人的に感じている「ミレニアム(2000年)の壁」。

 

 1990年代から2000年代に入るミレニアムの壁。カメラマンとして何の壁なのか? ずばりそれは、90年代までは『フィルム時代の壁』。2000年を越えると、『デジタルカメラの壁』。

 このフィルムとデジタルという線引きが2000年にひとつの壁として姿を現して、ミレニアム以降はこの壁に揺さぶられながら、徐々にフィルムからデジタルにシフトしてきた。

 では、具体的にどんな変化があったのか? 実は僕が戦場カメラマンとして動き始めたひとつスイッチとなったのは、カメラマンとしてまだ動く以前にバックパッカーの旅行者として、1993年の学生時代にインドやアフリカ方面を回っていました。

食費を抑えてフィルムを買った学生時代

 その時、カメラマンになるひとつのきっかけがアフリカあったんですけど、そういった1990年代前半から2000年代まで、僕はフィルムカメラを使っていました。

 駆け出し時代はオートフォーカスでボタンを押せば「ニーガチャンニー」の押せば撮れるカメラを使っていたんです。

 まだ学生でお金がなく、いかにリーズナブルなフィルムでたくさんの写真を撮れるかということで、フィルム売り場では「価格が優しいもの」「ディスカウントされているもの」を購入していったんですけど、持っていくフィルム数がどうしても限られてきて、最初は大体30本ぐらい。一つのロールがだいたい36カットで30ロール。多くて40弱だったんです。

 なぜ30から40ロールかというと、それしか買えなかったから。もうお金がなくて、格安航空券とフィルムを買うと、食費を抑えるしかない。

撮影済みのフィルムも没収!?  税関を抜けるのもひと苦労

 バックパッカーやカメラマンを自称しているんですが、空港や陸路で越えていく国境沿いの税関でカバンを全部開けたときに30本のフィルムを持っていると不審者極まりない。ということで、全部開けられて、ひどい時はフィルムをビャーッと引っ張られて、本物か確認されたりする。

 

「これは限られたものを撮って、たくさん記録に残していきたい」と、涙ながらに解説する、そんな検問をよく受けていたんです。

 30本よりもっとフィルムが必要で100本200本になってくると、リュックサックの中、全てがフィルムになってしまい、フィルムを外国に輸送している「密輸輸送のブローカーじゃないか?」という検問を受けるようになってくるんですね。

 できる限り体のここに5本、右側に8本、背中に10本、バックパックの中に50本と分散するんですけど、検査官が「さあ、検査します」とバッグを開けると、フィルムしか入ってないので、すぐに尋問で取材に入る前に自己P Rの時間になってしまったんです。

 そんなフィルム時代は、取材に入ってしまえばジャンジャン撮るんですけど、いざ撮ったあと、フィルムをどうやって持って帰ってくるか──。これが特にネックだったんですね。

2000年に登場したデジタルカメラの存在

 現地で現像するか、それとも持って帰るか──。そこで2000年の壁、ミレニアムを迎えると各カメラメーカーが“デジタルカメラ”というものを出し始めます。当時まだ100万画素や120万画素とかそのレベルでありながら、価格が10万円近くするのでフリーのカメラマンは手が出せない。

 

 ところが現場に行くと、外国の通信社のカメラマンが当時最新のデジタルカメラを持ってきていて、前線で撮ってるのを見たとき、僕が「それ何?」と聞くと、その外国の通信社のカメラマンは「これデジカメ」と言うんですね。

 「デジカメって何?」というと、「メディアで写真を管理して、このカードで好きなだけ撮れる」と当時教えてくれたんです。「ちょっと見せて」というと、その方が使っていた一眼レフ型のデジカメは画素数が大きくて、当時で400万画素ぐらいだったんですね。それを見たとき「うわぁ、これか!」と思いました。

 「フィルムで検問で捕まるのであれば、デジタルのメディアカードで行こう! デジカメにシフトしよう!」と思い、日本に帰ってくるとすぐカメラ屋さん行ってデジカメを見ると、尋常じゃない価格だったんですね。

 運動会とか家族で撮るようなものあっても5万円から6万円、プロ仕様になるともう20数万円ぐらいだったんですね。とても手が出ないということで、「フィルムでもうしばらく耐え抜いて行くしかない」という時に、大きな壁に突き当たったんです。

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