徳川家が戦国時代を生き抜いているのは、一にも二にも、信長の庇護があってこそ……。その信長に、妻子を殺せと命じられた家康。国か、家族か。究極の二者一択を前に下した決断とは?

監修・文/橋場日月

 

 

「まことの勇将」家康も評価した、才気あふれる嫡男信康の実像

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦当日、家康は「さてさて歳老いて骨の折るる事かな。倅が居たらば、これ程にはあるまじ」と20年以上前の天正7年(1579)に死なせた長男・松平信康を偲んで愚痴をこぼしたという(『徳川実紀』)。

 家康が惜しんだ信康は、永禄2年(1559)に生まれた。母の築山殿(つきやまどの)は今川一門の出であり、信康は家康が駿府で過ごしていた17歳の折りの子である。

 元亀元年(1570)に岡崎城主となり天正元年に初陣を経験して以来、武田軍との戦いに従事し、天正3年の長篠合戦にも一手の将として参加、その後の対陣でも家康に殿を志願して譲らず、見事武田軍に付け入る隙を与えなかった為に、家康から「まことの勇将なり。勝頼たとえ10万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」(『大三川志』)と驚嘆された。

 他にも彼の勇敢さを物語る逸話は多く、なるほど信康は生きていれば42歳。円熟の勇将として家康が陣頭指揮を任せた事は間違いない。合戦未経験だった弟の秀忠や忠吉とは違う。

信康・築山殿の死にまつわる、謎が残る3つの通説

二俣城天守址
最終的に二俣城に移送された信康は、この地で切腹を果たす。

 だが、現実には信康は21歳の若さで死ななければならなかった。

 しかも母の築山殿と相前後してという異常な状況の中で、だ。その原因については通説がいくつかある。

(一)築山殿(家康正室、信康の母)の武田家内応と信康の加担を咎めた織田信長の命令による

(二)信長による信忠(信長嫡男)のライバルの排除

(三)秀忠派の家臣による信康排除

 これをさらに潤色する形で「信康が正室・お五徳の侍女である小侍従を斬り、口を手で裂いた」「僧侶を馬でひきずって殺した」「少しでも意に背く者があればたちまち手討ちにした」などとも伝わっているが、すべて根拠は無い。

 江戸幕府の御用史家たちが息子を死なせた家康を弁護するため殊更に信康を貶めただけだ。...