監督就任1年目を終えた2013年。写真:高須力

 発売して3か月、栗山英樹の大著『監督の財産』は評判を呼び続けている。848ページと圧倒的なボリュームで綴られた「監督としての集大成」。

 本書の特徴は監督1年目から現在に至るまでの、「当時のリアルな言葉」がすべて記されていることだ。例えば「育成論」について、監督1年目と2年目は違うけれど、1年目と8年目が同じ――といった思考の過程がはっきりと読み取れる稀有な一冊なのである。

 そんな一冊は「野球人」以外にも大きな示唆を与える。

 『監督の財産』にある「当時のリアルな言葉」を聞き続けてきた放送作家の伊藤滋之氏に、栗山の言葉・哲学から読み解く人生へのヒントを記してもらった。

世の中に起きていることは誰かが必ず経験している

 「世の中に起きていることは、過去に誰かが必ず経験している」

 「ビジネスの原理原則は、古今東西変わらない」

 ユニクロを展開する株式会社ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、『報道ステーション』のインタビューで語っていた言葉だ。

 ビジネスで成功した人物の自伝を読み、偉大な創業者がどういう考えでそうしたのかを追体験し、自分を重ね合わせて考えを巡らせる。長年変わらぬルーティンだという。

 番組を観ていて、ふと栗山英樹(北海道日本ハムファイターズCBO)のことが頭に浮かんだ。

 大学時代、バッテリーを組んでいた同級生(当時、栗山はピッチャー)の影響でよく本を読むようになり、現役引退後はキャスターの勉強にとそれは欠かせない習慣になった。

 そして、50歳で監督に就任すると、まるで生きるために必要な栄養を摂取するかの如く、貪るようにページをめくり、文字を追うようになる。

 監督業に必要な学びを得るには、それが最良の方法だという確信があったのだろう。柳井の言う「古今東西変わることのない原理原則」を書物に求めたのだ。

 朝晩問わず読書に没頭し、それが著者との会話の相槌であるかのように付箋を貼っていく。手元には、こんなに付箋だらけだと、もはや付箋が意味をなさないのではないかと苦笑してしまうような状態の本も少なくない。

 近著『監督の財産』のおわりには、こう記されている。

はじめて「監督」という肩書きをいただいた当時、私は監督の初心者だった。

自分に限ったことではない。監督を名乗る誰もが、最初は初心者なのだ。

そして残念なことに、そのいろはの「い」を学ぶ手引き書はどこにも見当たらず、私の場合、それまで取材者として多くの監督に話を聞く機会があったにも関わらず、それを自分事に置き換えることがいかに困難な作業か、嫌というほど思い知らされることになった。

それでも、どうにか路頭に迷うことなく歩を進めることができたのは、繰り返し触れてきたように、先人の方々が活字として遺してくださった言葉に、標なき道を照らしていただいたことが何より大きかったと思う。

「活字」という言葉が「字を活かす」と書くように、まさしく「文字に活かされた」監督生活だった。
(『監督の財産』「おわりに」より)

 必然、栗山は歴史書、歴史小説も好んで読んできた。

 そして、「歴史はデータである」と思うまでに至る。

 こちらも近著『栗山英樹の思考』には読書体験をフィーチャーした章があり、そこでは司馬遼太郎が10年の歳月をかけて書き上げた『坂の上の雲』が紹介されている。

 その登場人物の中で、特に印象深いのが秋山真之だという。

 日露戦争では連合艦隊作戦参謀として活躍した真之は、読書家で兵書や軍書をよく読んだが、本当の戦いに臨む時、書いてあるものを取り出して読む時間はない、だから書物は体の中に覚える、というエピソードが出てくる。

 それに深く感じ入った栗山は、試合中にメモやノートに目を落とすことはなくなった。

 付箋だらけの本は体の中に覚え込ませ、いざ戦いに臨む。

 コーチに質問することはあっても、グラウンドから目を離すことはない。

「文字に活かされた監督生活」を示す一例といえる。

歴史の偉人に「会いたくない」の真意

 さて、ここで注目したいのは、栗山が「言葉」ではなく「活字」、つまり「読む」ことに大きな意味があると考えている点だ。

 こんなことを尋ねてみたことがある。

「もしも(栗山が好んで読み、その言葉を体にしみ込ませた)吉田松陰に会えたら、どんなことを聞いてみたいですか?」

 すると、考える間もなく、

「会ったら聞いてみたいことはたくさんあるけど、会えなくていい」

 意外な答えだったので、よく覚えている。

 松陰が存命であれば話は別だったかもしれない。

 いま、この現実世界で会いたい人、ぜひ話を聞いてみたい人はたくさんいるが、歴史上の人物、偉人に会いたいとは思わないというのだ。

 それは彼らが遺してくれた言葉に、活字で触れることに意味があると考えているからだ。

 読むことしかできないからこそ、読者は大いに想像を巡らせ、その想像力が追体験を可能にする。

「読む」ことのメカニズムについて、言語脳科学の権威である東京大学の酒井邦嘉教授がわかりやすく解説してくれている。

 要約すると、どうやらこういうことらしい。

「音声で聴く言葉」や「映像で見る言葉」に比べ、「文字で読む言葉」は脳に入力される情報が少ない。(朗読などの音声には、文字では出せないニュアンスやイントネーションなどの韻律が含まれ、映像は音声に多くの視覚情報が加わるため、音声は文字より、映像は音声よりそれぞれ情報量が多くなる)

 そのため、文字のように情報量が少なければ、足りない部分を想像力で補う必要が生じてくる。

 ここでいう想像力とは、「自分の言葉で考える」こと。わからないところが多いほど、脳は音韻・単語・文法・読解の4つの領域を総動員して「これはどういう意味だろう」と考え始める。

 活字を読むことは、単に視覚的に脳にそれを入力するだけでなく、能動的に足りない情報を想像力で補い、曖昧な部分を解決しながら「自分の言葉」に置き換えるプロセスと言える。

 この解説に触れて、腹落ちした。

 過去に読んだことのある本なのに、読み直すと以前とは違う印象を受けることがある。

 再読すると、付箋が貼ってある箇所にはピンと来ず、何も貼られていない一節が心に刺さることがある。

 そう、それらはきっと想像力の為せる業なのだ。

 いま、置かれている状況や抱えている課題に、想像の及び方は大きな影響を受ける。だから人は本を読み返すのだろう。

 もちろん読む者の想像が、著者の意図するところと必ずしも一致しているとは限らない。

 会って直接本人に確認したら、「私が言いたいのはそういうことではない」と頭ごなしに否定されるかもしれない。

 だが、きっとそれでもいいのだ。たとえ都合良く解釈していたとしても、自分の言葉で考えることには間違いなく意味があるのだ。

なぜ、栗山は新人選手に「本」を送ったのか?

 ファイターズの監督時代、栗山は毎年、新入団の選手に本を贈っていた。

 それまで野球漬けだった若者には、読者が苦手な者もいるだろう。

 そんな彼らに、決して「もっと勉強しなさい」と伝えたかったわけではない。

 手渡した一冊には、本を読むことを通じて、自分の言葉で考えることに慣れてほしい、そんな親心にも似たメッセージが込められていたのではないだろうか。

 自分で考えることのできる選手だけが生き残る、プロとはそういう世界だから。

 
『監督の財産』
栗山英樹・著

DHで初、自身3度目となるMVPを獲得した大谷翔平に対して、18歳からWBCまでどう接してきたかをはじめ、栗山いわく「自身の失敗談」から学んだことが詰め込まれた監督生活の集大成。初の監督となった2013年のオフから綴られた現在に至るまで「そのとき」に記したことがそのまま収録される。