(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖
(12)最後まで名声を求めなかった名門・紀氏の珍しい官人
(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由
(14)没落する名族の中で僅かな出世を遂げた安倍氏の官人
(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人
(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫
(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王
(18)官歴を消された藤原北家の官人・真夏が遺したもの ☜最新回
・藤原北家の嫡流の長男・真夏
・勝者の側からの後ろめたさの象徴
藤原北家の嫡流の長男・真夏

藤原北家の主流の人物を取り上げるのは、珍しいことである。内麻呂の嫡男の真夏(まなつ)である。まずは『日本後紀』巻三十八の天長七年(830)十一月庚辰条(10日)をお読みいただきたい。
一見すると、言動や音楽の才能に溢れた上級官人が死去しただけの記事に見えるが、その系譜や官歴が記載されていないのは、いささか不審である。散位というのは位階だけあって官職のない者のことであるが、この頃になると高位を持った官人の数は膨大なものになっていたので、官職にあぶれた官人も、それほど珍しいことではない。
しかし、この真夏が北家の嫡流で右大臣内麻呂(うちまろ)の長男であり、死去したのが壮年の57歳であったことを考え併せると、何かしら特殊な事情が裏に存在したのではないかと勘ぐりたくもなる。
真夏は宝亀5年(774)に内麻呂の長男として生まれた。母は飛鳥部奈止麻呂(あすかべのなとまろ)の女(むすめ)の百済永継(くだらのながつぐ)。渡来系の女性であったが、内麻呂の次男で後に権力を得て太政大臣にまで上った冬嗣と同母なのであるから、生母の出自が出世の妨げになったわけではない。
なお、永継は後に女嬬となり、桓武(かんむ)天皇の寵愛を得て皇子を産んだが、その子は親王となることはなく、臣籍に降下して良岑安世(よしみねのやすよ)となっている(大納言まで上っているが)。永継も正式な后妃に数えられることはなかった。

さて、真夏は延暦22年(803)に30歳で従五位下に叙爵され、中衛権少将と春宮権亮に任じられた。内麻呂の長男として、まずは順調なスタートを切ったと言っていいだろう。この時の東宮は安殿(あて)親王(後の平城[へいぜい]天皇)で、ここで真夏は安殿の側近となったことになる。なお、真夏と安殿は同年の生まれであった。
なお、真夏の妻として名が知られているのは、橘清友(きよとも)の女と伊勢老人(おきな)の女である(他に名前の判明しない三国真人女もいる)。つまり真夏の妻は、1人は嵯峨(さが)皇后橘嘉智子(かちこ)の姉妹、1人は平城宮人伊勢継子(つぎこ)の姉妹ということになる。真夏が藤原北家の嫡流として、若年時にいかに期待されていたかを示すものである。
なお、同母弟冬嗣の妻は、藤原真作(まつくり)の女美都子(みつこ)、百済王仁貞(くだらのこにきしにんじょう)の女、安倍男笠(おがさ)の女、島田村作(むらつくり)の女、大庭(おおば)王の女であり、明らかに王権に連なっている真夏の妻の方が有力である。
安殿が即位して平城の代になると、ますますその信任を受け、大同元年(806)に従四位下に昇叙され、近衛権中将に任じられた。翌大同2年(807)には右近衛中将に上り、武蔵守・内蔵頭・中務大輔などを兼任するなど、その優遇が露わになる。
大同4年(809)4月に、平城は同母弟の神野(かみの)親王に譲位し、嵯峨天皇が即位した。そして真夏は、山陰道観察使として公卿の列に加わった。観察使というのは平城が定めた職で、参議を改めたものである。11月には、平城太上天皇の御所として旧平城宮に建設する宮殿の占定を行ない、弘仁元年(810)には造平城宮使に任じられるなど、相変わらず平城の腹心として行動している。
実はこれが、真夏が出世できず、薨伝にも官歴を記されなかった理由なのである。平安京の嵯峨天皇、平城宮の平城太上天皇という、「二所朝廷」といった政治情勢の中、内麻呂は長男の真夏を平城の側近に配し、次男の冬嗣を嵯峨に接近させたのである。
政治の分裂に際し、兄弟を両陣営に配して、どちらかの家系の存続をはかるという手法は、関ヶ原の戦の際の真田家や、戊辰戦争の際のいくつかの藩で見られたものである。しかし、この手法は必ず一方の繁栄の影で、一方の没落を招く。勝った側の冬嗣は藤原北家の嫡流の座を真夏から奪い、真夏とその家は没落していったのである。
弘仁元年6月、観察使廃止にともなって参議に任じられたが、もはや真夏の政治生命は風前の灯となっていた。9月に起こった「薬子(くすこ)の変(平城太上天皇の変)」が、嵯峨の側から起こされたクーデターであったことは、すでに何度も述べてきた。平城は出家して旧平城宮で余生を送ったが、側近たちはそうはいかなかった。
真夏は平安京に呼び戻され、参議などの諸官を解かれたうえで、伊豆権守、ついで備中権守に左遷された。37歳の時のことであった。この政変の最中に冬嗣がはじめての蔵人頭に補され、嵯峨側近の座を確固たるものとしたのとは、対照的であった。まさに内麻呂の思惑どおりということになる。
真夏は2年後の弘仁3年(812)に罪を赦されて本官に復されたものの、これは本位の誤記であろう。直前に内麻呂が薨去しているのは、偶然であろうか。『公卿補任』では、変わらず「前参議」とある。
勝者の側からの後ろめたさの象徴
この頃、真夏は平城が居住する大和国の守に任じられた。弘仁14年(823)に平城が平城宮の諸司を停止し、残っていた平城宮の官人を朝廷に返却した際、また同年、平城が太上天皇の尊号を除くことを請う書状を淳和(じゅんな)天皇に奏上した際には、真夏が使者を務めている。お互い没落しながらも、平城の最晩年まで、側近として仕えていたのである。
一方の冬嗣は弘仁12年(821)に右大臣に上り、廟堂の頂点に立った。さすがに兄の処遇には考えるところがあったのであろう、真夏は翌弘仁13年(822)に従三位に昇叙された。
天長5年(828)には刑部卿に任じられた。すでに55歳に達していた年である。左大臣として朝廷を支えていた冬嗣は、すでに天長3年(826)に52歳で薨じていた。
真夏が散位のまま薨去したのは、天長7年(830)11月10日のことであった。その薨伝に系譜や官歴が記載されていないのは、もうご理解いただけたであろう。父である内麻呂の思惑によって平城の側近に配され、その破綻と運命をともにした真夏については、それらの経緯を記録するわけにはいかなかったのである。
勝者によって作られる正史は、嵯峨とその子孫の天皇、冬嗣とその子孫の藤原氏嫡流によって、その文脈が規定された。勝者の側からの後ろめたさの象徴が、真夏だったことになる。
その薨伝は、言葉を巧みに飾るとか、時宜に合わせた処世ができたとか、音楽の才能に恵まれていたとか、大嘗会での標や舞の演出といった、あたりさわりのないものばかりが並べられている。もっともこれも、大嘗会は平城の即位にともなうものだったから、ことさらに豪華にしたのだろうとか、時宜に合わせた処世ができたのならば平城に最後まで付き従うこともなかったはずであるとか、本人が見たら言いたいことはたくさんあることであろう。
真夏の子としては、橘清友女から平雄(ひらお)、伊勢老人女から竹雄(たけお)、三国真人女から越雄(こしお)と浜雄(はまお)が、それぞれ生まれており、他に生母不明の子女として吉備雄(きびお)・是雄(これお)・多雄(まさお)・恒雄(つねお)・松雄(まつお)・栢雄(かやお)・輔房(すけふさ)・関雄(せきお)、藤原高房(たかふさ)室となった女子・藤原愛発(ちかなり)室となった女子・藤原近岑(ちかみね)室となった女子・藤原三成(ただなり)室となった女子が知られる。
随分と子だくさんだったようであるが、当然ながら、高位高官に上った者はいない。浜雄が民部少輔、是雄が春宮亮、関雄が治部少輔に任じられたことが知られるくらいである。
ただ、浜雄の子の家宗(いえむね)は参議に任じられ、山城(やましろ)国宇治郡日野(ひの/現京都市伏見区日野)の地に法界寺(ほうかいじ)を創建したと伝える。ただこれは伝承に過ぎないようで、実質的には家宗五世孫の資業(すけなり)が永承六年(一〇五一)に法界寺薬師堂(やくしどう)を建立し、日野を家名としたというのが正しいようである。

その日野家は、日記の家として、日本文化の真髄を我々に残してくれている。兼家(かねいえ)の側近となった有国(ありくに)や摂関期に活躍した広業(ひろなり)をはじめ、儒道と歌道で朝廷に仕え、鎌倉時代の俊光(としみつ)以降は権大納言に上り、大臣に任じられることもあった。資朝(すけとも)や俊基(としもと)など、鎌倉時代末期から南北朝時代の政治史に積極的に関わって処刑された者も輩出した。
室町時代には業子(ぎょうし)が足利義満(あしかがよしみつ)の室となってから、九代義尚(よしひさ)まで、日野家の女子が将軍の室となった。八代義政(よしまさ)の室となった富子(とみこ)は有名である。
支流は広橋(ひろはし)・柳原(やなぎわら)・烏丸(からすまる)・竹屋(たけや)・外山(とやま)・日野西(ひのにし)・勘解由小路(かでのこうじ)・裏松(うらまつ)・北小路家(きたこうじけ)・豊岡(とよおか)・三室戸(みむろど)などの家に分かれ、計十二家の堂上(とうしょう)家が成立した。なお、浄土真宗(じょうどしんしゅう)開祖の親鸞(しんらん)は有範(ありのり)の子であると伝わり、日野には出生の地がある。