平安貴族列伝 目次
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
​(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
​(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相 
​(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体 
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由 
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人 
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート 
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期 
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体 
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人 
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖 
(12)最後まで名声を求めなかった名門・紀氏の珍しい官人 
(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由 
(14)没落する名族の中で僅かな出世を遂げた安倍氏の官人 
(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人 
(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫 
(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王 ☜最新回
   ・美麗で柔質、倨傲でも天皇は咎めず
   ・遺言状に見られる死生観

美麗で柔質、倨傲でも天皇は咎めず

斎宮復元模型(いつきのみや歴史体験館) 写真提供/倉本一宏

 

 女性を取り上げるのは、はじめてであろうか。光仁(こうにん)天皇皇女で桓武(かんむ)天皇の妃となった酒人(さかひと)内親王である。『日本後紀』巻三十七の天長六年(829)八月丁卯条(20日)には、次のように見える。

二品酒人内親王が薨去した。光仁天皇の皇女である。母は贈吉野皇后(井上[いのうえ]内親王)である。容貌が美麗で、柔質(たおやか)にして窈窕(ようちょう/上品で奥ゆかしい)であった。幼くして斎宮となり、年を経て退下し、すぐに三品に叙された。桓武天皇の後宮に入り、盛んな寵愛を受け、朝原(あさはら)内親王を産んだ。生まれつき倨傲(きょごう/おごり高ぶること)で、感情や気分が不安定であったが、天皇は咎めず、その欲する所に任せた。そのため婬行(あるいは媱行)がいよいよ増し、自制することができなくなった。弘仁年中に、年老い衰えたのを憐れんで、特に二品を授けた。常に東大寺に於いて万燈会を行ない、死後の菩提のための資とした。僧侶たちはこれを寺の行事として広めた。薨去した時、年は七十六歳。

 称徳(しょうとく)天皇が皇太子を定めないまま死去した際、式家を中心とする藤原氏が、遺詔を偽造して、聖武(しょうむ)皇女の井上(いのうえ)内親王と結婚して他戸(おさべ)王を儲けていた天智(てんじ)孫王の白壁(しらかべ)王を立太子させて即位させた(光仁天皇)ことは、先に述べた。この井上内親王には、もう1人、子がいたのである。それがこの酒人内親王である。

写真を拡大 制作/アトリエ・プラン

 酒人内親王は、天平勝宝6年(754)の誕生。他戸王(光仁の即位後に親王)よりも3歳、年少であった。宝亀元年(770)に三品に叙された。2年後の宝亀三年(772)3月に母の井上内親王が光仁を呪詛した事件に連坐して皇后を廃され、それにまた、五月に他戸親王が連坐して皇太子を廃されてしまったことも、先に述べた。

 そしてその年の11月13日、酒人内親王は、19歳で伊勢の斎王に卜定された。すでに成人していた酒人の卜定は、なにやら事件との関連が気にかかるところである。潔斎のため、春日斎宮に籠った後、宝亀5年(774)9月に、伊勢斎宮に群行した。いまだ後の鈴鹿峠は開通していなかったので、現在の草津線沿いのルートを通って、柘植から加太、鈴鹿関、安濃、壱志と進んだことであろう。

 このまま伊勢での穏やかにして厳粛な日々が続くと思われたのも束の間、翌宝亀6年(775)4月、井上内親王と他戸親王が、幽閉先で同日に急逝した。もちろん、自然死ではなかろう。近親が死去すると、伊勢斎宮は退下して京に戻るのが通例である。酒人は群行とは別のルートを通って、おそらくは大和経由で帰京したことであろう。

 帰京後、酒人は新たに皇太子の座に坐った異母兄の山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)の妃となった。聖武天皇の血を引く酒人との婚姻による、新皇統の荘厳がはかられたのであろう。酒人は、宝亀10年(779)に朝原(あさはら)内親王を産んだが、この朝原内親王も後に伊勢斎王に卜定された後、桓武の皇太子である安殿(あて)親王(後の平城[へいぜい]天皇)の妃となった。

遺言状に見られる死生観

 この世代にいたっても、天智系と天武系の両方の血を引く皇統の創出が構想されており、しかも酒人や朝原は光仁や桓武の血を引いている。平城と朝原との婚姻は、奈良時代の直系皇統(聖武)の権威の継受を意図したものであり、皇位継承権に正当性を獲得しようとしたものであった(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』)。天武系・天智系を統合した新たな嫡流皇統の創出というわけである。

 しかし、平城は、朝原はもちろん、大宅(おおやけ)内親王(桓武皇女)・藤原帯子から皇子を誕生させることなはく、身分の低い葛井藤子(ふじいのとうし/河内[かわち]国の百済[ひゃくさい]系渡来[とらい]氏族出身)や伊勢継子(いせのけいし/伊勢国の中臣[なかとみ]系豪族出身)から皇子を誕生させた。平城は桓武の、また藤原氏の皇位継承構想に反旗を翻(ひるがえ)したことになり、やむなく同母弟の神野(後の嵯峨)を皇太弟とした。皇統創出の責務は同母弟の神野(かみの)親王(後の嵯峨[さが]天皇)に託されたのである(倉本一宏『平安朝 皇位継承の闇』)。

 さて、朝原は弘仁8年(819)に死去した。酒人は大変悲しみ、弘仁14年(823)に空海(くうかい)に代作させた遺言状(『遍昭発揮 性霊集』所収)に、その悲しみを表わしている。この遺言状の中で、酒人は、次のように述べている(『弘法大師空海全集』第六巻、筑摩書房、1984年による)。

 また、子を助け育てるものは親であり、先祖を長く追慕するのは子です。

 私にも一人の子がありましたが、不幸にも私より先に露となりました。

 いまこれを顧みれば心の痛むことこのうえない、後事を託す子もいないのです。

「猶子」のことは、儒教の礼家の尊ぶところです。

 ゆえに私は三人の親王・内親王を亡くした子に代わる三人の男女とし、私の死を慎む道を、この三人に任せるのです。

 そして猶子にした式部卿・大蔵卿(共に名は不明)、安勅(あて)内親王の三人に、葬儀は火葬ではなく土葬とすること、副葬する品々はわずかな物でよいこと、所領地は全て3人と僧の仁主に分け与えること、その他の物は長年仕えてくれた家司と侍女たちに分け与えること、などを述べている。

 酒人が死去したのは、先に挙げた天長6年8月20日、76歳であった。その死によって、聖武の皇統に繋がる皇族は完全に絶えたのである。その薨伝は、『東大寺要録』に引かれた『日本後紀』に載せられている。「容貌が美麗で、たおやかにして上品で奥ゆかしかった」とあるものの、「生まれつき傲(おご)り高ぶり、感情や気分が不安定であったが、(桓武)天皇は咎めず、その欲する所に任せた。そのため婬行(あるいは媱行)がいよいよ増し、自制することができなくなった」と続く。

  一見すると、生まれつきのわがままに任せて「婬行」を続け、「性的にしまりがなかった」と解することもできよう。しかし、『東大寺要録』の板本や刊本には「媱行」とするものも多い。「媱」の字は「肩を曲げて歩くさま」、そこから転じて「見目良い」「美しく舞う」「戯れる」といった意味もある。こうなると、豪華華麗な交友や、万燈会などの華やかな催しを好んだという意味であったのかもしれない。また、「婬」には性的に淫乱という意味以外にも、「たわむれる」「おぼれる」という意味もある。なにかにつけて、たとえば万燈会のような宗教行事とかに没頭するタイプの人だったのであろう。

 それよりも、先ほど挙げた遺言状に見られる死生観こそ、(空海の代作とはいえ)酒人の思いが凝縮されたもののような気がしてならない。長文になるが、以下にその現代語訳を引いておく。

 私、酒人内親王は、式部卿・大蔵卿・安勅の三人の親王方に遺言申し告げます。

 そもそも天の道はもともと虚無なのです。終わりもなく始めもない。

 陰陽の気が合わさってもっとも霊的なもの即ち人間が起きてくる。

 この起きてくることを生、帰ることを死と呼んでいます。

 生死の分れ目は、万物の帰するところにあるかどうかだけなのです。

 私は齢従心(七十歳)、気力ともに尽きた。ましてや私を構成している四つの力(地・水・火・風)は、私の身体の中で闘いあい、二匹の鼠が藤の綱を噛み切りあうような様子なのです。

 荘子が夢に蝶となった故事は知っていましたが、わが身におよび魂のはたらきが休止しようとは驚きです。

 また、子を助け育てるものは親であり、先祖を長く追慕するのは子です。私にも一人の子がありましたが、不幸にも私より先に露となりました。

 いまこれを顧みれば心の痛むことこのうえない、後事を託す子もいないのです。

「猶子」のことは、儒教の礼家の尊ぶところです。

 ゆえに私は三人の親王・内親王を亡くした子に代わる三人の男女とし、私の死を慎む道を、この三人に任せるのです。

 私は死後、荼毘に付されることは望んでいません。体は塚穴に土葬とし、自然に帰るに任せてほしい。葬具や副葬品もどうか簡略にしてください。

 これが私の願いです。追善供養の斎も存世中に済んでいます。

 もしやむを得ず行う場合は、興福寺で七七日忌の経をあげてください。

 一周忌の法要は東大寺にて開いてください。

 私の所有する田地・家宅・林野・牧場などの類は、三人の親王と、縁の深かった僧侶・仁主に分け与えます。残りはそれぞれの骨折りに応じ、家司・家僕・童孺たちに分け与えてください。亡き姑の遺言です。