(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖
(12)最後まで名声を求めなかった名門・紀氏の珍しい官人
(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由
(14)没落する名族の中で僅かな出世を遂げた安倍氏の官人
(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人 ☜最新回
・大伴氏とともに軍事を掌る氏族
大伴氏とともに軍事を掌る氏族

これも古代の名族であった佐伯氏の官人である。『日本後紀』巻三十五の天長四年(827)四月丁巳条(26日)には、次のように見える。
佐伯氏というのは、『新撰姓氏録』で天孫降臨に際し瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従った天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖と主張する、大伴氏と同祖とされた氏族である。『万葉集』の大伴家持(やかもち)の歌にも「大伴と佐伯の氏」と詠われている。
大伴氏とともに軍事を掌る氏族とされ、皇極4年(645)の飛鳥板蓋宮での蘇我入鹿(いるか)暗殺事件にも功があったし、律令制成立後にも武官に任じられる官人を輩出した。しかし、天平宝字元年(757)の橘奈良麻呂(ならまろ)の変や延暦四年(785)の藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関与して罰せられる者も出て、氏族としての勢力は次第に衰えていった。議政官に任じられた官人は、東大寺・西大寺・長岡宮造営の功績によって延暦3年(784)に参議に上った今毛人(いまえみし)しかいない。

清岑が生まれたのは天平宝字7年(763)のことで、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の前年のことであった。延暦24年(805)に43歳でようやく従五位下に叙爵され、翌大同元年(806)に但馬介に任じられた。この時の功績が認められたのか、あるいは軍事氏族としての佐伯氏出身の故か、次には陸奥守に抜擢された。
そして弘仁2年(811)、陸奥出羽按察使の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)と共に、陸奥・出羽両国の兵二万六千人で、蝦夷の爾薩体(にさつたい)・幣伊(へい)の二村(現在の岩手県北部から青森県南部にかけて)を征討したいと奏上し、許されている。これが最後の「征夷」ということになったが、これは「征夷終結のための征夷」と称されている。
「薬子(くすこ)の変(平城【へいぜい】太上天皇の変)」を制圧して平安京を「万代宮(よろずよのみや)」の帝都として確立した直後の嵯峨(さが)天皇にとってみれば、その権威の確立に「征夷」を活用したというところであろう。実際には、双方とも決定的な勝利を収められないまま、38年にわたる「征夷」は終結した。
清岑はこの「功績」もあって昇進し、弘仁3年(812)に正五位下に昇叙され、翌弘仁4年(813)には右少弁に任じられて、中央官となった。しかし、弘仁10年(819)に従四位下、弘仁13年(822)に従四位上、天長元年(824)に正四位下と、位階は順調に昇進したものの、その間に任じられたのは、上野守や常陸守といった、東国、しかも蝦夷と国境を接する国の国司であった。やはり軍事氏族の伝統が影響したものか、それとも清岑の能力の問題であったのかは、定かではない。
しかもこの間、清廉な人物ではあり、政化を遠くまで及ぼし、悪い噂が立つことはなかったものの、政務を適切に処理することは下手であったという。加挙といって公出挙で各国毎に定めた稲の貸出額(例挙)以上の出挙を行なった結果、国内に未納が多く発生し、民は返済できずに逃亡するなど苦しんだとある。
結局、地方官としての名声を得ることはできず、下僚の国司による中央への告発によって、加挙は停止させられた。任期を終えて、天長年間初頭に帰京した後は新たな官に就くことはできずに散位で過ごし、天長4年に別邸で卒去したのである。65歳。
卒伝は、穏やかな温かみのある顔つきで、他人に対して怒りの感情を見せることがなかったとその人物を賞讃するが、このような温顔で租税を増やされては、堪(たま)ったものではない。これも武人としての融通のなさのなせる業だったのであろうか。
まあそれでも、目先が利いて私腹を肥やすような輩や、権力欲に取り憑かれてひたすら出世を求めるような連中よりは、どれだけマシなことであろうか。
次回:(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫