(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
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(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖 ☜最新回
・名族だった大伴氏の子孫
名族だった大伴氏の子孫

こちらはかなり困った御仁である。大化前代の名族である大伴(おおとも)氏の末裔である。当時は淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)である大伴親王を憚って、伴氏を名乗っていた。伴氏は古代では「とも」と発音していたが、後世は音で「ばん」と読むようになった。
その大伴氏の、金村(かなむら)から数えて五世孫に、弥嗣(いやつぐ)という男がいた。先祖の名誉を弥(いよい)よ嗣ぐようにとの父伯麻呂(おじまろ)の願いが込められた名だったのであろう。
弥嗣の卒伝は、『日本後紀』巻三十一の弘仁十四年(823)七月甲戌条(22日)に、次のように記されている。
大伴氏の先祖には、継体・欽明朝の「大連」とされる金村をはじめ、大化改新に活躍した咋(くい)や長徳(ながとこ/右大臣)、壬申の乱の功臣である馬来田(まぐた/納言か)・吹負(ふけい)・御行(みゆき/大納言)・安麻呂(やすまろ/大納言)など、錚々たる顔ぶれを輩出している。
しかし、律令国家がスタートすると、藤原氏に圧され、徐々にその地位を低下させていった(藤原氏以外の氏族は、皆、そうだったのであるが)。7世紀には文筆を表わす「史(ふひと)」という名であった「ふひと」が、並ぶ者がないという意味の「不比等(ふひと/比び等しきはあらず)」と改称し、「たびと」が「旅人」から、どこにでもいるという意味の「多比等(たびと/比び等しきは多し)」という字で表記されるようになったのが、それを象徴している。
それでも嫡流の旅人は大納言、家持(やかもち)は中納言にまで上っている。弥嗣の系統でも、祖父の道足(みちたり)、父の伯麻呂は、共に参議に任じられた。伯麻呂の子は、名鳥(なとり)は官位不詳で、早世したものと思われる。

弥嗣は、天平宝字5年(761)生まれ。妻は田口池守(たぐちのいけもり)の女(むすめ)であるが、田口氏というのは蘇我(そが)氏の同族で、平安時代初期には、田口氏の女性(名は不詳)が橘清友(たちばなのきよとも/奈良麻呂(ならまろ)の男)の妻となり、延暦五年(七八六)に、後に嵯峨(さが)天皇の皇后となって仁明(にんみょう)天皇を産むことになる嘉智子(かちこ)を産んでいる。
この僥倖(ぎょうこう)を得たことによって、田口氏は仁明の外祖母(がいそぼ)氏ということになり、平安時代に入ってからも、それなりの地位を保ち続けた。その田口氏の女性と結婚できたとなると、弥嗣もそこそこの期待を集めていたのであろう。なお、二人の間に子はなかったようで、この系統はここで絶えることとなった。
弥嗣の方は、桓武朝の延暦19年(800)に従五位下に叙された。数えで40歳の年のことであったが、これは大伴氏としては遅いというほどでもない。そして大宰少弐に任じられたというのは、まあまあの地位であると言えよう。
しかし、この弥嗣には、とんでもない性癖があった。「歩射(徒歩弓/かちゆみ)に巧みで、若い時から鷹犬(狩猟)を好んだ」というのは、さすが軍事氏族大伴氏の一員であると言えようが、「邪悪な性格で、人を射ることを憚らなかった」となると、何か心を病んでいるのではないかと思いたくもなる。現在でも武器で他人を傷つけることを好む人がいるが、何らかの心理の代償行為にも思えてくる。
その後、弥嗣は、平城朝の大同3年(808)に48歳で中務少輔、嵯峨朝の弘仁5年(814)に54歳で大蔵少輔と、京官を歴任した。弘仁13年(822)に正五位下、淳和天皇が即位した弘仁14年(823)4月27日に従四位下と昇叙された。
しかし、その頃には越後守の任にあったようであり、地方官に転出していた。何らか、中央に置いておけない事情が存在したのであろうか。卒伝では、「晩年には気持を改め、暴慢の評判は聞こえなくなった」と記されているのであるが。
そしてその年の7月22日に越後守のまま、卒去した。享年63歳。もはや自然の豊かな越後に下っても、好きな狩猟を楽しむことはなかったはずである。越後の人々にとっては、暴慢ではなくなった弥嗣を迎えて、ひと安心といったところだったであろうか。