
「道鏡事件」和気清麻呂の五男
和気(わけ)氏の官人を取り上げるのは、はじめてであろうか。『続日本後紀』巻十六の承和十三年(八四六)九月乙丑条(二十七日)は、次のような和気真綱(まつな)の卒伝を載せている。
若くして大学に入り、史書を学習し、二十歳の時文章生に補され、延暦二十三年に初めて任官して内舎人となった。大同四年に治部・中務丞に遷り、弘仁六年に従五位下に叙された。
それ以降、嵯峨(さが)・淳和(じゅんな)・仁明(にんみょう)天皇の三代に渉り内外官を経歴し、その数は三十余にのぼり、左右大中少弁・左右中少将の官がその中にあり、重要な官職で就かないものはなかった。そこで位階は従四位で終わったが、官は参議に至った。
さらにもとより仏教への信仰があり、帰依していた。天台・真言両宗の立宗は、真綱とその兄但馬守世(ひろよ)の二人の力によるものである。また、左近衛次将の時、俸禄を割き、併せて私財を加えて摂津国の良田を購入して近衛府の厨家に寄附した(柏梨荘)。良き将軍が酒食を提供して兵士を督励したのと同様に、現在も役立っている。公を支援したいという切なる気持ちを、ここに見ることができる。
しかし、禍福は糾える縄の如しで、量りがたいところがあり、本年の春夏にかけて法隆寺僧善愷(ぜんがい)が少納言従五位下登美(とみ)真人直名(なおな)の犯した罪を訴え、弁官が審理に当たろうとした際、同僚の弁官の中に直名の味方をする者(伴善男〈とものよしお〉)がおり、却って仲間の弁官を誣告して、違法の訴訟を受理したと主張したのである。
まず明法博士らに、違法の訴えを受理した罪を判断させたが、博士らは畏避するところがあって、正論を展開しようとせず、好悪のままにそれぞれが勝手な議論を展開して、公罪か私罪かについても定まらず、ここにおいて真綱は、「塵・埃の立つ道は行く人の目を遮るものである。不当な裁判の場で一人直言しても、何の益があろうか。職を退くに如かずである。早く冥途に向かおうと思う」と言い、固く山門を閉じて、病のないまま卒去した。行年六十四歳。
和気氏は吉備出身の古代豪族で、吉井川流域の備前・美作地方から出て、広虫・清麻呂姉弟の代に中央に出仕した。一族は磐梨別公(いわなしわけのきみ)から藤野別真人(ふじののわけのまひと)、輔治能(ふじの)真人、さらに和気公、和気宿禰、和気朝臣と改姓された。清麻呂は故郷の民政にも意を尽くし、備前・美作国造に任じられた。
姉弟ともに孝謙・称徳女帝の信任を得たが、神護景雲三年(七六九)に「道鏡(どうきょう)事件(称徳〈しょうとく〉天皇事件)」のため、別部(わけべ)姓に貶された。その後、中央に復帰し、広虫は典蔵、清麻呂は民部卿・造宮大夫に上った。長岡京、次いで平安京の造営を建議したのも清麻呂である。

清麻呂の子の広世・真綱・仲世(なかよ)らは、いずれも大学寮に入り、文章生から出身し、大学寮を復興した。また、最澄(さいちょう)・空海(くうかい)の外護者となって平安仏教に大きな足跡を残した。
「禍福は糾える縄の如し」
真綱は清麻呂の五男として、延暦二年(七八三)に生まれた。大学に入って史書を学習し(この辺までは私と同じなのだが)、二十歳で文章生となり、延暦二十三年(八〇四)に二十二歳で内舎人として出身し、大同四年(八〇九)に二十七歳で治部少丞、次いで中務少丞に任じられた。これはその門地から考えれば、異数の出世と言えよう。(私と違って)よほどの秀才だったのであろう。
その後、弘仁四年(八一三)に蔵人、弘仁五年(八一四)に大伴(おおとも)親王(後の淳和天皇)の春宮少進に任じられ、翌弘仁六年(八一五)に従五位下に叙爵され、春宮大進に上った。その後も、弘仁八年(八一七)に刑部少輔、弘仁十一年(八二〇)に右少弁・左近衛少将、弘仁十二年(八二一)に左少弁・右近衛少将、弘仁十四年(八二三)に内蔵頭・民部大輔・中務大輔・越前守・修理大夫、天長元年(八二四)に河内守、天長四年(八二七)に右中弁・内匠頭、天長五年(八二八)に摂津守、天長七年(八三〇)に宮内大輔、天長八年(八三一)に刑部大輔、天長十年(八三三)に木工頭、承和元年(八三四)に内蔵頭、承和二年(八三五)に右大弁、承和四年(八三七)に左近衛権中将・左近衛中将と内外官を歴任した。毎年のように職場と官が替わるというのは、退屈しなくていいなと思うと共に、仕事を覚えるのが大変だったのではないかと、凡人の私としては、要らぬ心配をしてしまう。
そして承和七年(八四〇)参議に任じられ、ついに公卿の地位に上った。さすがの秀才真綱も、すでに五十八歳となっていた。和気氏としては、空前絶後のことであった。右大弁は元どおりに兼任している。
しかしながら、卒伝が、「禍福は糾える縄の如し」という『史記』南越列伝の故事を引いているように、この慶事から六年後の承和十三年、いわゆる「善愷訴訟事件」において、真綱は下僚である右少弁伴善男から弾劾された。
この事件は、法隆寺僧の善愷が、同寺の壇越である登美直名を寺財の不当売却とその利益押領の廉で告訴し、善男以外の五名の弁官によって、直名に遠流の判決が下された事件であるが、かえって善男によって、裁判手続きの不備を弾劾され、闘訟律・告人罪条違反であるとして告発されたのである。明法博士たちの意見は分かれ、弁官たちの行動が公罪か私罪か、更に私罪であれば私曲があったのかどうかという点で、議論が紛糾した。
善男が弾劾した事項の内、弁官の訴訟受理は朝廷の慣例において一般的に行なわれており、これを不当とするのは、律令の法規定を重視するか、実際の政務運営を重視するかの議論であったわけであるが、善男の性格から見て、自己の属する弁官局の上司たちを一気に陥れようとしたものと考えられよう。
真綱が死去したのは、この裁判の最中であった。卒伝によれば、「不当な裁判の場で一人直言しても、何の益があろうか。職を退くに如かずである。早く冥途に向かおうと思う」と言って、固く山門を閉じ、病のないまま卒去したとある。六十四歳であった。俗に言う憤死とか憂死の類であろう。
なお、この裁判は、五名全員の弾劾が認められ、死去した真綱以外の四名に、解官のうえ贖銅を課すことが決定した。また、五名に有利な明法勘文を作成した三名の明法博士も解任された。善男が応天門の変で失脚するのは、二十年後の貞観八年(八六六)のことである。真綱の卒伝が真綱に好意的で、善男に批判的なのは、『続日本後紀』が完成したのが貞観十一年(八六九)であることによる。
真綱の卒伝で特記されているのは、まず人柄が人情に厚く、忠孝を兼ね合わせ、よこしまなことをしたことがないという人格、そして仏教への信仰についてである。父の清麻呂が創建し、桓武(かんむ)天皇によって定額寺に列されていた神願寺について、寺域が汚れているとして、高雄山寺の寺域と交換して、新たに神護国祚真言寺と称し、改めて定額寺とすることを、弟の仲世と共に言上して、これを許されている。
最澄(さいちょう)の「高雄法会」を設け、最澄が唐から帰朝すると灌頂法壇を設け、さらに空海(くうかい)の帰朝後は、仲世と共に金剛灌頂を受けている。卒伝が、天台・真言両宗を興隆させたのは広世・真綱の二人であると評しているのは、こういった背景があるのである。
さらに、左近衛次将の時、俸禄を割き、合わせて私財を加えて摂津国の良田を購入し、近衛府の厨家に寄附したとある。「公を支援したいという切なる気持ちを、ここに見ることができる」と評している。なお、真綱が左近衛次将(少将・中将)であったのは、三十八歳の弘仁十一年以来のことであり、この柏梨荘の立荘がこの頃のことであったとすると、若いのにまことに奇特な人であったと言えよう。こんな上司がいれば、どれだけ幸せなことであろう。
なお、真綱には、生母は不明ながら、豊永(とよなが)・好道(よしみち)・貞興(さだおき)・観光(あきみつ)・貞臣(さだおみ)という五名の男子がいたと伝わる(『和気氏系図』。貞臣は仲世の子で、養子)。貞興の子の時雨(しぐれ)が医博士・典薬頭に任じられた後、和気氏は典薬頭を歴任し、医道を家学とした。室町時代末ごろから、半井(なからい)家を称して、後世まで存続した。『医心方』をはじめとする古医書を所蔵してきたことでも知られる。
また、和気氏の特徴として、道鏡事件がらみの宇佐使がある。真綱から元亨年間(一三二一―二四)に中断されるまで、天皇の即位奉告などのために、代々和気氏が派遣されたのである。清麻呂を祀る京都の護王神社(本来は摂関家である近衞〈このえ〉家の近衞殿、後には村上源氏久我〈こが〉家の中院〈なかのいん〉家邸の故地で、当地に遷座したのは一八六六年〈明治十九〉)は、狛犬の代わりに狛いのししが置かれている(設置されたのは一八七〇年〈明治二十三〉)。清麻呂の宇佐使の際の故事(三百頭の猪が、道鏡の派遣した刺客から清麻呂を護ったとか)にちなむものである。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
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