
退潮する藤原式家
藤原式家の人物を取りあげるのも、これが最後になるだろうか。『続日本後紀』巻十六承和十三年(八四六)八月辛巳条(十二日)には、藤原吉野(よしの)の薨伝が載せられている。
弘仁四年に主蔵正から美濃少掾に任じられ、同七年春に春宮少進に遷り、同十年正月に従五位下に叙され、駿河守に任じられ、諸事を滞りなく処理し、部内を取り締まり犯罪をなくした。弘仁十四年夏四月に東宮が受禅して即位する(淳和〈じゅんな〉天皇)と、五月に吉野は中務少輔となり、ついで左近衛少将に任じられ、天長元年に従五位上に昇叙し、同二年に伊予守を兼ね、畿内巡察使となり、八月に正五位下に叙され、同四年に従四位下を授けられ、皇后宮大夫に任じられ、同五年閏正月に右兵衛督を兼ね、五月に参議となり、式部大輔を兼ね、同七年五月に春宮大夫に遷り、八月に正四位下に叙され、右近衛大将となり、春宮大夫は故のままだった。
同九年十一月に従三位を授けられて、権中納言に任じられ、同十年三月に東宮が受禅して即位すると〈深草(ふかくさ)(仁明〈にんみょう〉)天皇〉、正三位を授けられた。その後、右近衛大将を辞職し、退位した淳和太上天皇に従った。
承和元年に権中納言から正任となり、同七年五月に淳和太上天皇が死去すると、一年間、出仕せず、再三にわたり上表して辞職を求めた。しかし、許されず、宮中からの使がしきりに出仕を求め、強いて参内するようになったものの、まもなく、承和九年七月に伴健岑(とものこわみね)の事変に縁坐して、大宰員外帥に左降され、同十二年正月に山城国に遷された。行年六十一歳。
吉野は、藤原綱継の一男として延暦五年(七八六)に生まれた。母は蔵下麻呂の女の妹子(いもこ)。この年の公卿構成は、南家の藤原是公(これきみ)が右大臣として首班の座にあり、大納言が同じく南家の藤原継縄(つぐただ)ただ一人、中納言が北家の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)と石川名足(いしかわのなたり)・紀船守(きのふなもり)の三人、参議が佐伯今毛人(さえきのいまえみし)・神王(みわおう)・大中臣子老(おおなかとみのこおゆ)・紀古佐美(こさみ)の四人というものであった。
桓武(かんむ)天皇擁立に功績のあった藤原良継(よしつぐ)・藤原百川(ももかわ)、桓武の側近であった藤原種継(たねつぐ)、そして吉野の祖父の蔵下麻呂ら式家の公卿はすでに亡く、後に桓武の側近となる藤原緒嗣(おつぐ)や藤原仲成(なかなり)は、いまだ若年であった。式家の退潮は、覆いようもなかったのである。
父の綱継も、吉野が生まれた年には二十四歳で出身前と、まったく頼りのない家に生を受けたことになる。なお、綱継が従五位下に叙爵されたのは四十一歳の年のことで、その時には吉野はすでに十七歳に達していた。

ついでに言うと、綱継は淳和天皇の即位に伴ってやっと六十一歳で蔵人頭、六十三歳で参議に任じられた。天長五年(八二八)に吉野に参議を譲って自らは致仕し、山井里第に隠棲した。後に述べる承和の変で吉野が左遷され、四年後に吉野が死去しても、さらに長命を保ち、承和十四年(八四七)に八十五歳で薨去している。
淳和天皇に仕える
さて、吉野は若くして大学に学び、主蔵正に任じられた後、弘仁四年(八一三)に美濃少掾に任じられ、三十一歳の弘仁七年(八一六)に春宮少進に任じられた。当時の東宮は大伴(おおとも)親王(後の淳和天皇)で、同じ式家出身の母(藤原百川女の旅子〈たびこ〉)を持つ大伴親王と吉野は同年齢で、親しく仕え、生涯を淳和の為に捧げることとなった。『文華秀麗集』には、美濃少掾として下向する吉野に贈った大伴親王の七言絶句があり、淳和と吉野の親密な関係が窺える。
その後、弘仁十年(八一九)に三十四歳で従五位下に叙爵され、駿河守に任じられた。「諸事を滞りなく処理し、部内を取り締まり犯罪をなくした」と、その治世を讃えられたのは、この時のことである。
弘仁十四年(八二三)に淳和が即位すると、中央に呼び戻され、中務少輔、次いで左近衛少将と要職に任じられた。翌天長元年(八二四)には左少弁、天長三年(八二六)には天皇側近の蔵人頭に補された。天長四年(八二七)に皇后宮大夫、次いで右兵衛督に進み、翌天長五年(八二八)には、先に述べたように、父綱継の譲りによって参議に任じられ、公卿に上った。四十三歳という若年であった。天長七年(八三〇)には春宮大夫と右近衛大将を兼任し、天長九年(八三二)には従三位権中納言に昇進するなど、順調な官歴を歩んでいた。
しかし、天長十年(八三三)に淳和が退位して、皇統の異なる嵯峨皇子の仁明天皇が即位すると、右近衛大将を辞し、淳和太上天皇に従って淳和院(右京四条二坊)に陪侍した。中納言の官にはあったものの、淳和の側近に侍したらしい。淳和は承和七年(八四〇)に崩御したが、嵯峨や仁明に遠慮して、「自分の遺骨を散骨して、この世に野心を残していない事を示して欲しい」という遺言によって火葬され、その遺骨は吉野の手によって泣く泣く大原野の西山(京都市西京区の小塩山)の山頂付近で散骨された。吉野にとってみれば、これで生きるための大きな目標がなくなったと感じられたことであろう。
そして承和九年(八四二)に起こった承和の変において、淳和皇子の東宮恒貞(つねさだ)親王や吉野たちは謀反の疑いをかけられた。恒貞は廃太子され、すぐさま新東宮に良房(よしふさ)の妹である順子(じゅんし)が産んだ道康(みちやす)親王(後の文徳〈もんとく〉天皇)が立てられた。吉野も連坐して大宰員外帥に左降された。この時、東宮坊の官人が全員、左遷されたが、そのうち式家の者が五人、含まれていた。明らかに、事態は藤原北家の良房や仁明生母の橘嘉智子(たちばなのかちこ)に有利にはたらいたのである。吉野は承和十二年(八四五)には大宰員外帥も解任され、山城国に移配された。そのまま復活することなく、翌承和十三年(八四六)に薨去したのである。時に散位正三位、六十一歳であった。
「忠臣は二君に仕えず」とは、『史記』田単(でんたん/中国戦国時代の斉の武将)伝に見える故事であるが、実際にこれを実践できる者は少ない。新君の時代になると、何とかしてそちらに取り入ろうというのが常であるし、中には君主が代わりそうになると、旧主を見捨てて新たな主を見定めようとする連中も、政治の世界のみならず、あらゆる社会で頻繁に見られる現象である。この吉野こそ、これを実現した数少ない人物であったと言えよう。
その薨伝には、いくつか吉野の人となりを表わすエピソードが語られている。自分より下の者に尋ねることを恥じず、性格は寛大・柔和で包容力があり、人々から慕われた。賢者を見ては、それと同等となろうと思い、手から書物を離すことがなく、目下の者からも進んで教えを受ける一方、師弟にも教え諭した。穏やかな人柄で、他人の過ちを見ても冷ややかに対することがなく、議論をして、法に反するようなことを主張することはなかった。
住まいには樹木を植える事を好み、その様子は竹を愛した東晋の文人・王徽之(王羲之〈おうぎし〉の子)を彷彿させた。なお、徽之が竹を指して、「一日としてこの君(竹)がなくては過ごせないのです」と言ったという故事は、『枕草子』の有名な逸話で有名である。
父母に仕えて孝行し、わずかの間もそれに欠けることがなく、忠と孝の道にともに励んだ。父が新鮮な肉があると聞いて人を遣わして求めたことがあったが、吉野が朝廷に出仕していて在宅していなかったので、肉の持ち主は分けてくれなかった。後に吉野はこのことを聞き、持ち主を責めて涙を流し、終身、肉を食することを止めたという。
政治的に完全に敗れた者に対して、国家がこれだけの讃辞をその薨伝に書き連ねる、これこそが吉野の真骨頂であろう。摂政太政大臣として位人臣を極めた藤原良房、天皇の生母として権力を一身に集めた嘉智子と比べて、どちらが充実した人生であったかは、一概には論じられない問題であるが、吉野の方により爽やかな印象を覚えることは、間違いのないところであろう。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
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(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王
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