
『令義解』の編纂にも従事
次は学者である。『続日本後紀』巻十五の承和十二年(八四五)二月丁酉条(二十日)は、善道真貞(よしみちのまさだ)という学者の卒伝を載せている。
善道氏というのは、聞き慣れない氏族だが、どうやら真貞が賜わったのが最初で、後にも淡路守に任じられた継根と伊豆守に任じられた根莚の二人しか、確実な史料には見えない。末継・岑継・貞継・忻妙という男子がいたとする系図もあるようだが、一次史料では確認できない。

真貞は、神護景雲二年(七六八)の生まれ。天長五年(八二八)にみずから上表して善道氏となった。それ以前には、伊与部連真貞として、天長二年(八二五)から登場する。善道氏は、はじめは宿禰姓で史料に見えるが、後に朝臣姓に昇格したようで、承和五年(八三八)からは朝臣姓で現われる。
伊与部氏というのは、持統三年(六八九)に撰善言司に拝され、『懐風藻』にも漢詩が採られている伊余部馬養の子孫である。馬養は丹後国司の時に「水江浦島子伝」を作り(『丹後国風土記』逸文)、「浦島太郎」伝説の基を作った人物である。
さてこの真貞、明経道という、『孝経』や『論語』などの儒教の経典を研究する学問を修めた。大学では、明経生の中から優秀な者四人が選ばれて明経得業生となり、数年を経て明経試を受けて官吏となった。明経道は学生数が多く、なかなか上に昇るのは大変なのだが、真貞はよほど優秀だったらしく、十五歳で入学し、数年というから十代の内に得業生となった。しかし、大同四年(八〇九)に明経試に及第して山城少目(四等官の最下位)に任じられた時には、すでに四十二歳となっていた。いやはや、今も昔も、学者というのは大変な稼業である。
その後、播磨少目に遷った後、弘仁四年(八一三)に四十六歳で大学助教を兼任し、弘仁十年(八一九)に五十二歳で明経博士に転任した。戦後日本の「ポツダム大学」や、平成以降の「バブル大学」、まして近年の「免許証博士」とは異なり、当時は大学は日本に一つしかなく、博士も想像を絶する立派な地位なのであった(ただし、貴族社会の中では中級貴族の下の方)。英才であった真貞が「出世」するまでにこれほどの年数を要したのは、致し方のないところであった。ただ、当時は現在よりもはるかに平均寿命が短かったから、「出世」以前に他界してしまった学者も、大勢いたことであろう。
真貞はその後、天長の初年に五十代末で大学助や陰陽頭を歴任した。もはやただの学者ではないという自覚からか、天長五年に善道氏となることを申請したのである。この「ただの学者」から「行政官」への「出世」が、今も昔も、学者としての人生を狂わせるのではあるが。
もっとも真貞は学者としての本分も失わなかったようで、六十四歳になった天長八年(八三一)から、学識のある公卿一、二人と共に、『令義解』の編纂に従事している。これも政治との関わりもあったにせよ、律令学の大成は、後世に大きな利益をもたらすことになった。
この真貞に関わるエピソードとして面白いのは、彼が三伝(『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』)、三礼(『周礼』『儀礼』『礼記』)という儒教の根本経典に通じていたものの、漢音という標準的な字音を学ばず、四声という声調を弁えず、いい加減な字音で教授していたという点である。正統で完璧な学者よりも、どこか玉に瑕のある学者の方が、受講している側としては魅力的なものである(欠点ばかりの人では困るが)。
このようにして「出世」を続け、承和八年(八四一)に七十四歳で皇太子恒貞親王の東宮学士となった。東宮学士とは、皇太子に経書を進講する官であるが、このような栄誉ある官に就いて喜んでいたところに、大きな落とし穴が待っていた。恒貞親王は承和九年(八四二)に嵯峨太上天皇が死去すると、承和の変で皇太子を廃されてしまったのである。東宮坊の官人は、皆、これに連座し、真貞も備後権守に左遷されてしまったのである。
とはいえ、これまでの学者としての功績によるものであろう、承和十年(八四三)に仁明天皇が国家の功臣であるという理由で、京に戻した。そして『公羊伝』の研究が廃れるのを恐れ、再び大学で『公羊伝』の講義が再開した。この年、七十六歳であった。真貞はその最晩年に、また一介の学者に戻ったことになる。
真貞が自家で死去したのは、その二年後のことであった。七十八歳。彼の脳裡に去来したのは、どのような光景であったことか。
なお、私事で恐縮であるが、私が大学に入学して教養の二年間、漢文の習練のため、『春秋左氏伝』の講義を受講していた。『左氏伝』理解の助けにするため、『春秋公羊伝』も読んでいたのだが、割とわかりやすい『左氏伝』とは異なり、『公羊伝』の方は難解であったことを、何十年ぶりに思い出した。よく考えたら、専門学部に進学して以来、和風の変体漢文ばかり読んで、本格的な漢文はほとんど勉強していないのであった。
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