
北家より式家が有力だった藤原氏
たまには権力者をご紹介しようか。『続日本後紀』巻十三の承和十年(八四三)七月庚戌条(二十三日)は、致仕(ちし/官職を退いて引退すること)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)の薨去を、次のように記している。
「緒嗣の功績を思う朕の気持ちは心中深く、その徳を回想すると昔馴染みの思いがする。天の秩序に適った法則をすべて身につけ、人臣の盛んな人望を担った人物であった。さらに朕の幼かった頃から皇室を護り、鷹隼のような固い志をもち、事に当たっては松竹のように変わらない節操があった。哀しく死を悼み、栄誉で包もうと思う。朕の贈る栄光で冥路を照らすことができよう。そこで従一位を贈ることにする」と。
続けてその薨伝が載せられている。
平安時代の藤原氏というと、どうしても北家を思い浮かべることと思うが、実は光仁(こうにん)天皇の擁立以来、薬子(くすこ)の変(平城〈へいぜい〉太上天皇の変)までは、宇合を祖とする式家の方が優勢であった。
桓武の側近として長岡京造営に尽力した種継(たねつぐ)が暗殺されていなければ、そして平城の側近であった種継男の仲成(なかなり)が嵯峨の命によって射殺されなければ、この一門が藤原氏の嫡流となって摂関政治をリードしていたかもしれないのである(摂関政治になったかどうかはわからないが)。

菅野真道と徳政を論じる
緒嗣は、光仁(こうにん)天皇の即位や山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)の立太子に暗躍したとされる百川の長子として、宝亀五年(七七四)に生まれた。桓武は百川の功績に恩義を感じており、緒嗣を鍾愛して、延暦七年(七八八)に元服した際には、殿上に召して自ら加冠し、恩詔を下して正六位上を授け、内舎人に任じた。そして、かつて百川が献上した剣を授け、封戸百五十戸を下賜した。
剣というものが、かつての草壁(くさかべ)皇子や文武(もんむ)天皇、首(おびと)皇子(後の聖武〈しょうむ〉天皇)と藤原不比等(ふひと)の間でやりとりされるなど特別な君臣関係に係る呪術性をもつものであることを思うとき、緒嗣に対する桓武の思いは、推して知るべきであろう。
その後も延暦十年(七九一)に十八歳で従五位下に叙され、侍従・中衛少将・衛門佐・右衛士督を歴任した後、延暦二十一年(八〇二)には、わずか二十九歳で参議に任じられた。
その際、神泉苑に行幸した桓武は、緒嗣に和琴を弾奏させ、神王や安殿親王(後の平城天皇)・親王に対し、「緒嗣の父がいなければ、自分はどうして帝位を践むことができたであろうか。緒嗣は若く、臣下の者は怪しむだろうが、緒嗣の父の多大な功績は忘れることのできないものであり、緒嗣を参議とし、その長年にわたる恩に報いようと思う」と詔している。
延暦二十四年(八〇五)には殿上で菅野真道と徳政を論じ、その意見がいれられて、征夷と造都の二大事業が民を苦しめるものとして停止された。桓武の最晩年まで、もっとも信頼する側近は緒嗣だったのである。
平城の時代になると、緒嗣は大同元年(八〇六)に諸道観察使の制を建議し、自ら山陽道観察使となり、畿内観察使、また東山道観察使・陸奥出羽按察使として、地方情勢の把握に努めた。
嵯峨の時代となって観察使が廃止されると、大同五年(八一〇)に参議に復したが、その頃には嵯峨の側近として薬子の変(平城太上天皇の変)の鎮圧に尽力した北家の冬嗣(ふゆつぐ)が藤原氏の中心となっていた。それでも弘仁八年(八一七)に四十四歳で中納言、弘仁十二年(八二一)に四十八歳で大納言、そして淳和天皇の天長二年(八二五)には五十二歳で右大臣に上った。嵯峨や淳和からも冬嗣からも信頼(安心?)されていたのであろう。
天長三年(八二六)に冬嗣が死去してからは、政権の首班となり、天長九年(八三二)にはついに左大臣に上った。五十九歳の年のことであった。
この間、政治に練達していて、労せずしてよく国政を処理し、国家の利害については知れば必ず奏上したとある。
また、各氏族の系譜を集成した『新撰姓氏録』の撰述に加わり、『日本後紀』の編纂の首班となるなど、国家の中枢に関わる文化面でも力を尽くした。
ただし、「二人の人があることについて議論している時に、始めに語った者の説が正しくなく、後に語った者の説が真実であっても、先の説を確信すると、後説を容れないところがあった。この偏見への固執により、批判を受けた」と評されているのは、頑固な孤高の老人の姿を彷彿とさせ、かえって好感が持てる。
晩年は空海ゆかりの今熊野観音寺の整備と、その隣接地の法輪寺(後の泉涌寺)創建に関わり、これは次男春津(はるつ)の代に完成している。
死亡したときは、七十歳であった。
緒嗣の長男家緒(いえお)は従四位下左兵衛督、次男春津は従四位下散位、他に本緒(もとお)と忠宗(ただむね)の名が『尊卑分脈』に見えるが、官位は不詳である。なお、孫の枝良(えだよし)、曾孫の忠文(ただふみ)は参議に上った。この頃から、藤原氏の議政官は北家のみがほぼ独占するようになり、他の家で大臣に上る者はいなくなる。
忠文は平将門(まさかど)の乱の鎮定のため征東大将軍に、藤原純友(すみとも)の乱の平定のため征西大将軍に任じられたが、どちらも到着前に乱は鎮圧された。後には実頼(さねより)など小野宮家に祟ったと称された。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート
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(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体
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(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖
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(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由
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(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人
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(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王
(18)官歴を消された藤原北家の官人・真夏が遺したもの
(19)藤原式家の世嗣に見る官僚人生をまっとうする尊さ
(20)後世の伝説へ繋がる六国史に書かれた空海の最期
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(22)長寿の官人・池田春野が一度だけ脚光を浴びた理由
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(24)ひとりの天皇に尽くした南家最後の大臣・藤原三守
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