
「承和の変」に連座して左遷
久々に皇親氏族である。『続日本後紀』巻十三の承和十年(八四三)三月辛卯条(二日)には、次のような文室秋津(ふんやのあきつ)の卒伝が見える。
文室氏というのは、天武(てんむ)天皇皇子長(なが)親王の子智努王と大市(おおち)王の兄弟が天平勝宝四年(七五二)に臣籍に降下して賜わった氏である。はじめは皇親氏族として真人姓であったが、平安時代になると天武(てんむ)朝の八色の姓で最上格の姓であった真人もありがたみがなくなり、弘仁元年(八一〇)に綿麻呂が文室朝臣を賜わった後は、朝臣姓として史料に登場する者も出てくる。

文室智努は後に名を浄三(きよみ)と改め、御史大夫(大納言)に上った。宝亀元年(七七〇)八月に称徳(しょうとく)天皇が死去すると、吉備真備(きびのまきび)はこの浄三を皇嗣に推したが、浄三はこれを辞退し、二箇月後の十月に死去した。なお、真備は次に弟の大市を推したが、結局は藤原百川(ももかわ)をはじめ、藤原永手(ながて)や藤原良継(よしつぐ)たちが宣命を偽作(ぎさく)して、天智(てんち)の皇孫である白壁(しらかべ)王を即位させた(光仁〈こうにん〉天皇)。
浄三の子・大原(おおはら)は備前守で終わったが(なお、大原は姓を三諸〈みもろ〉朝臣に替えている)、その一男の綿麻呂(わたまろ)は征夷将軍として名高い。綿麻呂の弟で大原の四男が秋津である。なお、末弟の宮田麻呂(みやたまろ)は、筑前守として任地にあった承和八年(八四一)、新羅人張宝高(ちょうほうこう)と関わりを持って国際交易に手を出し、承和十年(八四三)に謀反を告発されて伊豆国に配流され、配所で没している。
秋津は延暦六年(七八七)に生まれた。浄三の孫として蔭位を受け、弘仁元年(八一〇)に二十四歳で右衛門大尉、次いで右近衛将監と武官を歴任し、弘仁五年(八一四)に蔵人に補された(『公卿補任』)。
弘仁七年(八一六)に三十歳で従五位下を叙され、右馬助、次いで左近衛将監、天長元年(八二四)に右兵衛権佐、天長二年(八二五)に左近衛中将と、また武官を歴任した。
その後は権力中枢への昇進が始まった。天長四年(八二七)に蔵人頭を兼ね(頭中将)、天長七年(八三〇)には四十三歳でついに参議に任じられ、公卿に上ったのである。その年のうちに右大弁も兼ね(天長九年〈八三二〉には左大弁に遷っている)、まさに太政官と武官両方の中枢に位置することとなった。
しかしながら、天長十年(八三三)に仁明(にんみょう)天皇が即位し、淳和(じゅんな)太上天皇の皇子である恒貞(つねさだ)親王が皇太子に立った際に、春宮大夫を兼ねたことが、後で考えるとケチの付き始めであった。承和元年(八三四)に検非違使別当に補されるにしたがって左大弁の任を解かれ、翌承和二年(八三五)に右近衛中将も止められた。
そして承和九年(八四二)七月十五日に嵯峨(さが)太上天皇が死去すると、十七日、平城(へいじょう)天皇皇子の阿保(あぼ)親王が橘嘉智子(かちこ)に封書を送り、伴健岑と橘逸勢(はやなり)が恒貞皇太子を奉じて東国に向かおうとしていることを密告した。嘉智子はこれを藤原良房(よしふさ)に送り、良房が仁明天皇に奏上させた。「承和の変」の発端である。すぐに関係者が逮捕され、二十三日には、恒貞親王の廃太子と、大納言藤原愛発(ちかなり)・中納言藤原吉野(よしの)、そして秋津の左遷が宣下された。
「皇太子は知らなかったにしても、悪者に皇太子が煽動された事件のことは、古くから伝えられている」という言葉が、事件の本質を表わしている。伴健岑と橘逸勢は二十八日に流罪となった一方、事件の処理にあたった良房は、二十五日に大納言に上っている。また、東宮坊(とうぐうぼう)の官人が全員、二十六日に左遷されている。なお、逸勢は八月十三日、阿保親王は十月二十二日に死去し、逸勢は後に怨霊になったとされる。
秋津も春宮大夫であった関係でこの事変に連座し、出雲員外守に左遷された。そして一年足らずの後、配所で死去したことになる。よほど失意の中にあったのであろう。
この秋津、武官として武芸を論じれば、勇将と称するに十分であったとあり、また検非違使別当としては、非違の監察には最もこの人が適任であったと卒伝にある。まことに立派な軍事官僚と称すことができよう。
ただし、それに続けて、酒癖が記されている。薨卒伝に酒癖が記されると、たいていは酒癖が悪くて暴れたとかいうものが多いが、秋津は違う。一人前の男に似つかわしくなく、三、四坏の酒を飲むたびに、必ず酔って泣く癖が有ったというのである。いわゆる泣き上戸というやつなのであった。これも秋津の人格の一端を語っているのであろう。
文室氏はその後も、平将門の上兵として仕えた文室好立や、刀伊の入寇を撃退した筑前国志摩郡住人の文室忠光など、おおよそ皇親氏族とは思えない武人を輩出している。これも綿麻呂や秋津の余慶であろうか。
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