京都御所建礼門 写真提供/倉本 一宏

凶礼を掌る土師氏であった菅原氏

 久々に有名人である。もっとも、菅原清公(きよとも)は、本人も有名な学者であるが、道真(みちざね)の祖父として名を残している感がある。『続日本後紀』巻十二の承和九年(八四二)十月丁丑条(十七日)は、次のような薨伝を載せている。

文章博士従三位菅原朝臣清公が薨去した。清公は故遠江介従五位下古人(ふるひと)の第四子である。父古人は学問で世に高く、余人と異なっていたが、家に余財は無く、子供たちは貧乏に苦しんだ。清公は若くして儒教経典と史書を学び、延暦三年に詔によって東宮に陪侍し、二十歳の時、試験に及第して文章生に補された。学業に優れ、秀才に推挙され、延暦十七年に登用試験の対策を受けて合格し、大学少允に任じられた。延暦二十一年に遣唐判官に任じられ、近江権掾を兼任した。延暦二十三年七月に渡海して唐に到り、大使と共に天子(徳宗[とくそう])に謁見し、天子の引き立てを得た。延暦二十四年七月に帰朝し、従五位下に叙され、大学助に転じた。大同元年に尾張介に任じられた。刑罰を用いず、漢の劉寛(りゅうかん)が行なった仁恕に基づく政治を施した。弘仁三年に任期が満ちて入京し、左京亮に補され、大学頭に遷任された。弘仁四年に主殿頭に任じられ、弘仁五年に右少弁に拝され、左少弁に転じ、式部少輔に遷任された。弘仁七年に従五位上に加叙され、阿波守を兼任した。弘仁九年に詔書が有り、天下の儀式や男女の衣服は、皆、唐法に倣うこととし、五位以上の位記を中国風に改め、諸宮殿や院堂門閣の額題を皆、新たに改め、また百官の拝舞の次第を改めたが、これらの朝儀には、いずれも清公が関与した。弘仁十年正月に正五位下に加叙され、文章博士を兼任し、『文選』の侍読となり、兼ねて集議の場に加わった。弘仁十二年に従四位下に叙され、式部大輔に転任し、次いで左中弁に任じられたが、意に適わないとして、求めて右京大夫に遷った。嵯峨(さが)天皇が閑余の折、京職大夫の相当位を問うと、清公朝臣は、自らの右京大夫が正五位の官であると答えた。天皇は即日、改めて従四位の官とし、左京大夫も同じとした。弘仁十四年に弾正大弼に任じられ、天長元年に播磨権守に任じられて下向した。これは左遷に異ならず、時の人は憂えた。天長二年八月に公卿が議奏して、国の元老である清公を京から遠く離してはならないと奏上して、再び入京させ、文章博士を兼任した。天長三年三月、また弾正大弼に遷任し、信濃守を兼ねた。また左京大夫に転任し、文章博士は元のままとした。天長八年正月に正四位下を授けられ、承和二年に但馬権守を兼任した。『後漢書』の侍読となった。承和六年正月に従三位に叙された。老病によって弱り、歩行にも難儀するようになった。勅によって、牛車に乗って建礼門の南の大庭の梨樹の下まで到ることを聴された。これは清公が強いて求めたものではなく、日ごろの古事・古書を学んできた学識を認められてのことであった。その後、病を受け、次第に参内しなくなった。仁徳に勝れ生物を愛し、殺伐なことを好まず、仏像を造り経を写すことに勤め、常に良薬を服用し、容顔は衰えることはなかった。薨去した時、年七十三歳。

 菅原氏は、元は大王の喪葬などの凶礼を掌る土師(はじ)氏であった。和泉の百舌鳥(現大阪府堺市)、河内の古市・丹比(現大阪府藤井寺・羽曳野市)、大和の秋篠・菅原(現奈良市)といった、倭王権の大王墓の造営された地域を地盤とした。

 天応元年(七八一)に土師古人ら十五人が、居地の菅原(現奈良市菅原町)によって土師を改め菅原氏としたいと申し出て、許可されたことから、菅原氏が始まる。延暦九年(七九〇)に、桓武(かんむ)天皇の外祖母が土師氏であったということにより、朝臣姓を賜った。なお、延暦元年(七八二)に秋篠(あきしの)氏、延暦九年(七九〇)に大枝(おおえ)(貞観八年<八六六>からは大江)氏への改氏が認められた門流もある。

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 清公は、菅原姓を賜った古人の四男として、宝亀元年(七七〇)に生まれた。古人も学問で名をなしたが、学者の通例で財は無く、清公ら子供たちは貧乏に苦しんだとある。それでも学問はできるもので、清公は幼少より経史(儒教経典と史書)に通じ、学者の道を歩み始めた。

 延暦三年(七八四)に十五歳で東宮に近侍したが、この東宮早良(さわら)親王は、翌延暦四年(七八五)に廃されて絶食死(一説に飲食を与えられず死に至った)してしまう。それでもめげずに学問に励んだ結果、延暦八年(七八九)に二十歳で文章生となり、秀才という地位に推挙され、延暦十七年(七九八)に二十九歳で対策という試験に及第し、大学少允に任じられた。ここまでは順調な学者の歩みであった。

空海、最澄とともに唐へ

 転機が訪れたのは、延暦二十一年(八〇二)に遣唐判官に任じられたことであろう。前にも触れた藤原葛野麻呂(かどのまろ)を大使とし、空海(くうかい)・最澄(さいちょう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)たちを擁した、延暦の遣唐使の判官である。清公の学問が評価された結果であろう。

 一行は延暦二十三年(八〇四)に入唐して徳宗に拝謁し、翌延暦二十四年(八〇五)に帰国した。功績によって従五位下に叙され、大学助に任じられた。大同元年(八〇六)に尾張介に任じられて地方に出たが、中国の儒教の徳治思想を顕わし、刑罰を用いず仁恕に基づいた政治を施したという。

 弘仁三年(八一二)に帰京し、左京亮、次いで大学頭に任じられた。ついに四十三歳で学問の世界の頂点に登りつめたことになる。翌弘仁四年(八一三)に主殿頭、弘仁五年(八一四)に右少弁、次いで左少弁、式部少輔、弘仁十年(八一九)に文章博士(兼任)、弘仁十二年(八二一)に式部大輔、左中弁、右京大夫、弘仁十四年(八二三)に弾正大弼と、次々に顕官を歴任し、「儒門の領袖」と称されたという。

和風の名前を唐風に改正

 この間、特筆すべきは、弘仁九年(八一八)に献議を行ない、儀式や衣服、宮殿や院堂門閣の額題を唐風に改める詔が下ることとなった。たとえば古来から大伴氏が守衛してきた門を大伴門と言ったが、これを唐風に応天門と改称した類である。

 また、「東京、愛宕郡。また左京と言う。唐名は洛陽。西京、葛野郡。また右京と言う。唐名は長安」とされ(『帝王編年記』)、平安京の右京を長安、左京を洛陽と呼ぶこととなったのも、清公の献議によるものである。後に右京は廃れ、平安京というともっぱら左京を指したために、京に上ることを上洛と称することになったのも、この時の詔に基づくものである。

 さらには、それまで和風だった人名の付け方(「田村麻呂」など)を唐風に改め、二文字訓読み(「道真」「基経」など)か一文字訓読み(「融」「信」など)という形式にし、女性の名前も「・・・子」という形式にすることも、清公の建言によって導入されたものとされる。

 なお、天長三年に式部大輔、左中弁、右京大夫と、次々と転任しているのは、薨伝によると、左中弁は意に適わないとして、求めて右京大夫に遷ったものという。希望どおりに転任が叶うというのも、嵯峨天皇の信任がいかに厚かったかを示すものであろう。

天皇のみならず貴族からも愛される

 この右京大夫については、薨伝が面白いエピソードを載せている。嵯峨が清公(当時の位階は従四位下)に京職大夫の相当位を問うと、清公は正五位の官であると答えた。嵯峨はすぐに改めて従四位の官としたという。律令の規定をも替えさせる清公の信任であった。

 また、その前、天長元年(八二四)に五十五歳で播磨権守として地方に下ると、時の人は、これは左遷であると憂えた。翌天長二年(八二五)に公卿が議奏して、国の元老である清公を京から遠く離してはならないと奏上し、再び入京させて、文章博士を兼任させたという。天皇のみならず、貴族層全体からも大いに尊敬されていたことがわかる。この点、孫の道真とは随分と違うものである。

 この間、勅撰漢詩集である『凌雲集』(弘仁五年編纂)、『文華秀麗集』(弘仁九年編纂)の撰者の一人となり、天長十年(八三三)に完成した『令義解』の編纂にも参画した。清公本人の漢詩は、『凌雲集』に四首が採録されているほか、家集に『菅家集』がある。

  その後も文章博士の兼任は続いたが、承和六年(八三九)に従三位に叙され、公卿の列に加わった頃には、すでに七十歳に達し、老病によって弱り、歩行も困難になっていた。この頃には、当時の平均寿命をはるかに超えていたのである。仁明(にんみょう)天皇の勅によって、牛車に乗ったまま建礼門の南の大庭の梨樹の下まで到ることを聴された。薨伝によると、これは清公が求めたものではなく、日ごろ古事・古書を学んできた学識を認められてのことであったという。同じく古事・古書を学んでいる者として、自分との差に恥じ入るばかりである。

 その後、病を受け、さすがに参内しなくなったという。仁徳に勝れ生物を愛し、殺伐なことを好まず、仏像を造り経を写すことに勤め、常に良薬を服用し、容顔は衰えることはなかったものの、承和九年についに薨去した。時に七十三歳。

「文章博士の世襲」が招いた功罪

 清公には五人の男子が知られるが、このうち、是善の子が道真である。孫の道真が死後に天神として祀られたことから、清公も是善と共に天満宮に祀られることになった。

 と、まことに学者としてはこれ以上、考えられないような人生を送った清公であるが、その一面では、私邸の廊下に学生を集めて「菅家廊下」と称されるようになり(『北野天神御伝』)、学閥を形成することとなった。また、文章博士を菅原氏が世襲することになった基を築いたのも、清公であった。当然、他氏の学者の反撥を買うこととなり、後に道真が左遷される遠因となったという評価もある。清公は預かり知らぬことであろうが。

平安貴族列伝 目次
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
​(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
​(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相 
​(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体 
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由 
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人 
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート 
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期 
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体 
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人 
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖 
(12)最後まで名声を求めなかった名門・紀氏の珍しい官人 
(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由 
(14)没落する名族の中で僅かな出世を遂げた安倍氏の官人 
(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人 
(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫 
(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王 
(18)官歴を消された藤原北家の官人・真夏が遺したもの 
(19)藤原式家の世嗣に見る官僚人生をまっとうする尊さ 
(20)後世の伝説へ繋がる六国史に書かれた空海の最期
(21)天皇から民衆にまで愛された皇親氏族・甘南備高直​
(22)長寿の官人・池田春野が一度だけ脚光を浴びた理由
(23)最後の遣唐使の大使を務めた藤原常嗣の隠れた功績
(24)ひとりの天皇に尽くした南家最後の大臣・藤原三守
(25)大学で学び、地方官を立派に務めた官人・紀深江
(26)唯一の特技?美声を誇った長屋王の子孫・高階石河〈前回〉
(27)菅原道真より優秀だった?祖父・菅原清公の功罪 ←最新回
(28)不思議な一芸のおかげで出世した官人・笠梁麻呂〈次回〉