
凶礼を掌る土師氏であった菅原氏
久々に有名人である。もっとも、菅原清公(きよとも)は、本人も有名な学者であるが、道真(みちざね)の祖父として名を残している感がある。『続日本後紀』巻十二の承和九年(八四二)十月丁丑条(十七日)は、次のような薨伝を載せている。
菅原氏は、元は大王の喪葬などの凶礼を掌る土師(はじ)氏であった。和泉の百舌鳥(現大阪府堺市)、河内の古市・丹比(現大阪府藤井寺・羽曳野市)、大和の秋篠・菅原(現奈良市)といった、倭王権の大王墓の造営された地域を地盤とした。
天応元年(七八一)に土師古人ら十五人が、居地の菅原(現奈良市菅原町)によって土師を改め菅原氏としたいと申し出て、許可されたことから、菅原氏が始まる。延暦九年(七九〇)に、桓武(かんむ)天皇の外祖母が土師氏であったということにより、朝臣姓を賜った。なお、延暦元年(七八二)に秋篠(あきしの)氏、延暦九年(七九〇)に大枝(おおえ)(貞観八年<八六六>からは大江)氏への改氏が認められた門流もある。

清公は、菅原姓を賜った古人の四男として、宝亀元年(七七〇)に生まれた。古人も学問で名をなしたが、学者の通例で財は無く、清公ら子供たちは貧乏に苦しんだとある。それでも学問はできるもので、清公は幼少より経史(儒教経典と史書)に通じ、学者の道を歩み始めた。
延暦三年(七八四)に十五歳で東宮に近侍したが、この東宮早良(さわら)親王は、翌延暦四年(七八五)に廃されて絶食死(一説に飲食を与えられず死に至った)してしまう。それでもめげずに学問に励んだ結果、延暦八年(七八九)に二十歳で文章生となり、秀才という地位に推挙され、延暦十七年(七九八)に二十九歳で対策という試験に及第し、大学少允に任じられた。ここまでは順調な学者の歩みであった。
空海、最澄とともに唐へ
転機が訪れたのは、延暦二十一年(八〇二)に遣唐判官に任じられたことであろう。前にも触れた藤原葛野麻呂(かどのまろ)を大使とし、空海(くうかい)・最澄(さいちょう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)たちを擁した、延暦の遣唐使の判官である。清公の学問が評価された結果であろう。
一行は延暦二十三年(八〇四)に入唐して徳宗に拝謁し、翌延暦二十四年(八〇五)に帰国した。功績によって従五位下に叙され、大学助に任じられた。大同元年(八〇六)に尾張介に任じられて地方に出たが、中国の儒教の徳治思想を顕わし、刑罰を用いず仁恕に基づいた政治を施したという。
弘仁三年(八一二)に帰京し、左京亮、次いで大学頭に任じられた。ついに四十三歳で学問の世界の頂点に登りつめたことになる。翌弘仁四年(八一三)に主殿頭、弘仁五年(八一四)に右少弁、次いで左少弁、式部少輔、弘仁十年(八一九)に文章博士(兼任)、弘仁十二年(八二一)に式部大輔、左中弁、右京大夫、弘仁十四年(八二三)に弾正大弼と、次々に顕官を歴任し、「儒門の領袖」と称されたという。
和風の名前を唐風に改正
この間、特筆すべきは、弘仁九年(八一八)に献議を行ない、儀式や衣服、宮殿や院堂門閣の額題を唐風に改める詔が下ることとなった。たとえば古来から大伴氏が守衛してきた門を大伴門と言ったが、これを唐風に応天門と改称した類である。
また、「東京、愛宕郡。また左京と言う。唐名は洛陽。西京、葛野郡。また右京と言う。唐名は長安」とされ(『帝王編年記』)、平安京の右京を長安、左京を洛陽と呼ぶこととなったのも、清公の献議によるものである。後に右京は廃れ、平安京というともっぱら左京を指したために、京に上ることを上洛と称することになったのも、この時の詔に基づくものである。
さらには、それまで和風だった人名の付け方(「田村麻呂」など)を唐風に改め、二文字訓読み(「道真」「基経」など)か一文字訓読み(「融」「信」など)という形式にし、女性の名前も「・・・子」という形式にすることも、清公の建言によって導入されたものとされる。
なお、天長三年に式部大輔、左中弁、右京大夫と、次々と転任しているのは、薨伝によると、左中弁は意に適わないとして、求めて右京大夫に遷ったものという。希望どおりに転任が叶うというのも、嵯峨天皇の信任がいかに厚かったかを示すものであろう。
天皇のみならず貴族からも愛される
この右京大夫については、薨伝が面白いエピソードを載せている。嵯峨が清公(当時の位階は従四位下)に京職大夫の相当位を問うと、清公は正五位の官であると答えた。嵯峨はすぐに改めて従四位の官としたという。律令の規定をも替えさせる清公の信任であった。
また、その前、天長元年(八二四)に五十五歳で播磨権守として地方に下ると、時の人は、これは左遷であると憂えた。翌天長二年(八二五)に公卿が議奏して、国の元老である清公を京から遠く離してはならないと奏上し、再び入京させて、文章博士を兼任させたという。天皇のみならず、貴族層全体からも大いに尊敬されていたことがわかる。この点、孫の道真とは随分と違うものである。
この間、勅撰漢詩集である『凌雲集』(弘仁五年編纂)、『文華秀麗集』(弘仁九年編纂)の撰者の一人となり、天長十年(八三三)に完成した『令義解』の編纂にも参画した。清公本人の漢詩は、『凌雲集』に四首が採録されているほか、家集に『菅家集』がある。
その後も文章博士の兼任は続いたが、承和六年(八三九)に従三位に叙され、公卿の列に加わった頃には、すでに七十歳に達し、老病によって弱り、歩行も困難になっていた。この頃には、当時の平均寿命をはるかに超えていたのである。仁明(にんみょう)天皇の勅によって、牛車に乗ったまま建礼門の南の大庭の梨樹の下まで到ることを聴された。薨伝によると、これは清公が求めたものではなく、日ごろ古事・古書を学んできた学識を認められてのことであったという。同じく古事・古書を学んでいる者として、自分との差に恥じ入るばかりである。
その後、病を受け、さすがに参内しなくなったという。仁徳に勝れ生物を愛し、殺伐なことを好まず、仏像を造り経を写すことに勤め、常に良薬を服用し、容顔は衰えることはなかったものの、承和九年についに薨去した。時に七十三歳。
「文章博士の世襲」が招いた功罪
清公には五人の男子が知られるが、このうち、是善の子が道真である。孫の道真が死後に天神として祀られたことから、清公も是善と共に天満宮に祀られることになった。
と、まことに学者としてはこれ以上、考えられないような人生を送った清公であるが、その一面では、私邸の廊下に学生を集めて「菅家廊下」と称されるようになり(『北野天神御伝』)、学閥を形成することとなった。また、文章博士を菅原氏が世襲することになった基を築いたのも、清公であった。当然、他氏の学者の反撥を買うこととなり、後に道真が左遷される遠因となったという評価もある。清公は預かり知らぬことであろうが。
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