
自らの力で運命を切り開く
たまには大臣に上った人物を取りあげようか。『続日本後紀』巻九の承和七年(八四〇)七月庚辰条(七日)は、次のような薨伝を載せる。

三守は、左大臣藤原武智麻呂(むちまろ)の曾孫、参議巨勢麻呂の孫、阿波守真作の第五子として、延暦四年(七八五)に生まれた。藤原氏嫡流の南家とはいえ、巨勢麻呂が仲麻呂(なかまろ)と行動をともにして、藤原姓を除かれ、勝野鬼江で斬首されたこともあって、この巨勢麻呂流は没落していた。
しかも、大同二年(八〇七)に起こった伊予(いよ)親王の変で、大納言雄友(おとも)が連坐して伊予に流罪となり、中納言乙叡(たかとし)も解官(げかん)されるなど、南家自体の権力も決定的な打撃を蒙った。従五位上阿波守に過ぎない真作の五男として生まれた三守の行く末も、本来ならば暗澹たるものであったに違いない。
しかし三守は、自らの力で運命を切り拓いていった。若くして大学に学んで五経に習熟し、東宮主蔵正として東宮時代の神野(かみの)親王に仕え、その寵遇を得たのである。神野親王が大同四年(八〇九)に即位して嵯峨天皇となると、蕃邸の旧臣として殊に優遇された。従五位下に叙爵され、時期は不明だが、嵯峨皇后の橘嘉智子(かちこ)の姉である安万子(あまこ)と結婚した。後宮で典侍を務めた安万子との結婚が三守の運命を決定したことは、言うまでもない。右近衛少将・内蔵頭・大伴(おおとも)親王(後の淳和(じゅんな)天皇)の春宮亮などの要職を歴任している。
弘仁二年(八一一)に二十七歳の若さで蔵人頭に補され、弘仁七年(八一六)に式部大輔から参議に上った。三十二歳の年であった。弘仁十二年(八二一)に三十七歳で権中納言に昇進するなど、その門流からは考えられないほどの出世を遂げた。
嵯峨天皇の退位と共に辞官
弘仁十四年(八二三)に嵯峨天皇が退位し、大伴親王が即位すると(淳和)、三守は一院に閑居して、辞官を上表した。これを見た者は落涙し、識者は三守の態度に恥じ入ったという。淳和は三守の決意を覆すことが難しいことを悟り、権中納言の官職を帯びたまま嵯峨院に出仕し、引き続き嵯峨太上天皇に近侍することを命じた。この状況の中でも、三守は辞官を上表したが、許されずに逆に三十九歳で中納言に昇進させられた。
「忠臣は二君に仕えず」とは、中国の倫理上の理想ではあるが、さて実際にこれを実践するとなると、なかなかできることではない。まさに「君臣水魚の交わり」を具現したものであろう。なお、嵯峨院は現在の大覚寺の地で、寺の東には嵯峨が中国の洞庭湖を模して築造した大沢池がある。
しかし、朝廷は有能で実直な三守を放っておくはずはなかった。七年後の天長三年(八二六)に再び召されて刑部卿に任じられ、天長五年(八二八)には大納言に上った。この間、天長七年(八三〇)には、嵯峨朝から引き続き修訂が進められていた『弘仁格式』を撰上した。
そして承和五年(八三八)にはついに右大臣に上った。五十四歳の年のことであった。山科大臣(または始祖の鎌足(かまたり)と区別して後山科大臣)と呼ばれた。なお、南家から大臣が出たのは、延暦十五年(七九六)に右大臣藤原継縄(つぐただ)が死去して以来、実に四十二年ぶりのことであった。そして三守が最後の南家出身の大臣ということになる。
ところが、二年後の承和七年、三守は五十六歳で死去してしまった。当時としては、短命というわけではない。嵯峨院で過ごしたブランクが惜しまれるが、三守としては、かえって朝廷に再出仕したことの方が惜しまれたのかもしれない。
私が三守についてすごいと思うのは、穏やかな性格でありながら、合わせて決断力があったという、公卿として理想的な人となりであるが、それに加えて、詩人を招き、酒杯を交して親しく付き合い、学者に会うと、必ず下馬して通り過ぎるのを待ったという、腰の低さである。偉くなるとやたらと威張りくさる連中の多い世の中で、これはまことに天晴れな態度である。特に学者を尊重するという、世にも稀なる行動は、さすがに自身も大学出身という経歴によるのであろう(学者の中にも、ちょっと偉くなると、かつては学者であったことも忘れて、威張り散らす御仁もいると聞くが)。
さて、三守自身も、『経国集』の中に滋野貞主(しげののさだぬし)が三守に贈った詩に唱和した嵯峨太上天皇の漢詩が採録されていることから、嵯峨のサロンに出入りする唐風文化の担い手の一人であったと想定されている。
最澄、空海とも交流
また、天台・真言両宗の熱心な後援者であったそうで、南都仏教を中心とする僧綱の強硬な反対に遭って難航していた最澄(さいちょう)の大乗戒壇設立構想が、弘仁十三年(八二二)に勅許を得たことは、三守たちの尽力によるとされ、弘仁十四年には初代延暦寺俗別当に補されている。さらには、空海(くうかい)との親交も深めるうちに、左京九条の邸第を空海に提供しているが、天長五年(八二八)に空海はその場所に綜芸種智院を設置している。
三守の女の貞子(ていし)は仁明天皇の女御となり、承和四年(八三七)に第八皇子成康(なりやす)親王を産んだ。貞子の生母は不明だが、安万子である可能性は十分に考えられるところである。成康親王は幼い頃より背が高く、堂々としている様子で、成人のような志を持っていた。仁明からこれを奇とされて寵愛されたというが、疱瘡を患って仁寿三年(八五三)に十八歳で病没してしまった。仁明の皇統を継いだのは、北家の冬嗣(ふゆつぐ)の女順子(じゅんし)が産んだ第一皇子道康(みちやす)親王(後の文徳(もんとく)天皇)であった。やがて冬嗣の子である良房(よしふさ)や、その養子である基経(もとつね)によって、前期摂関政治への道が拓かれていくことになる(倉本一宏『藤原氏』)。
三守は安万子の他にも、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の女など、何人かの女性と接し、合わせて七男二女を儲けた。子の仲統(なかむね)は参議、孫の諸葛(もろくず)は中納言に上った。光孝(こうこう)天皇の擁立を定めた仗議の場で、諸葛は異議を唱える者(源融(とおる)か)を剣に手をかけて抑えたと伝えられる。その子の玄上(はるうら)も参議に上っている。「琵琶の上手」でもあり、名器玄上(げんじょう)は玄上の持ち物であったとも伝えられる。なお、諸葛の孫に、藤原純友(すみとも)に虜掠された備前介子高(さねたか)がいる。
また、三守の曾孫藤原元真(もとざね)は三十六歌仙の一人に挙げられる歌人である。また、玄孫の藤原棟世(むねよ)と清少納言(せいしょうなごん)との間の娘である小馬命婦(こまのみょうぶ)も、一条(いちじょう)天皇中宮の藤原彰子(しょうし)に仕え、勅撰歌人となっている。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人
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(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人
(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫
(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王
(18)官歴を消された藤原北家の官人・真夏が遺したもの
(19)藤原式家の世嗣に見る官僚人生をまっとうする尊さ
(20)後世の伝説へ繋がる六国史に書かれた空海の最期
(21)天皇から民衆にまで愛された皇親氏族・甘南備高直
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(23)最後の遣唐使の大使を務めた藤原常嗣の隠れた功績〈前回〉
(24)ひとりの天皇に尽くした南家最後の大臣・藤原三守 ←最新回
(25)大学で学び、地方官を立派に務めた官人・紀深江〈次回〉