
藤原北家の官人として順調に昇進
どうもマイナーな人物に進んで行き過ぎたので、今回は藤原北家の常嗣(つねつぐ)について述べることとしよう。『続日本後紀』巻九の承和七年(八四〇)四月戊辰条(二十三日)は、次のような薨伝を載せている。
常嗣の曾祖父にあたる鳥養(とりかい)は、北家の祖である房前(ふささき)の長子であったが、天平元年(七二九)の天平改元の日に従五位下に叙爵されたものの、早い時期に死去したものと思われる。その子の小黒麻呂(おぐろまろ)は大納言に上り、その子の葛野麻呂(かどのまろ)は中納言に上っている。
ただし、この頃には、藤原北家の嫡流は、真楯(またて)・内麻呂(うちまろ)・冬嗣(ふゆつぐ)と続く系統に、ほぼ固まってしまっていた。鳥養が早世したことと、小黒麻呂・葛野麻呂が大臣に上ることがなかったことが影響したのであろう。永手(ながて)・魚名(うおな)・内麻呂と続いた権臣に打ち勝つには、小黒麻呂や葛野麻呂は、いかにも凡庸だったのである。
葛野麻呂が平城(へいぜい)天皇に接近しすぎたことも原因であった。その点では、長男の真夏(まなつ)を平城上皇、次男の冬嗣を嵯峨(さが)天皇に配置して家の存続をはかった内麻呂などには、及ぶべくもなかったのである。

とはいえ常嗣も、藤原北家の官人として、順調に昇進していった。名家の子としては珍しく大学に学び(平城天皇の影響か)、学問に励んで才能を発揮した後(『経国集』に漢詩が採られている)、嵯峨天皇の弘仁十一年(八二〇)に二十五歳で右京少進、次いで式部大丞に任じられた。弘仁十四年(八二三)に二十八歳で従五位下に叙された。この時期としては早い方である。ただ、下野守に任じられたものの赴任せず、京に留まったというのは、いかなる思いによるものであろうか。それでも咎められることはなく、春宮亮、また右少弁に任じられている。
淳和(じゅんな)天皇の天長元年(八二四)に二十九歳で式部少輔に遷り、次いで勘解由次官を兼ねた。天長三年(八二六)に三十一歳で従五位上、天長五年(八二八)に三十三歳で正五位下に叙されたというのも、順調な昇進である。
ところが、天長七年(八三〇)、三十五歳の時に公務のことで処罰され、刑部少輔に左遷された。処罰されてもこの程度で済んでいるというのも、いかにも北家の御曹司という感がある。すぐに赦されたらしく、薨伝には記載がないが、蔵人頭に補された(『公卿補任』)。翌天長八年(八三一)に三十六歳で従四位下に叙され、勘解由長官に遷るとともに、参議に任じられ、公卿の地位に上った(『公卿補任』)。天長九年(八三二)に三十七歳で下野守、続いて右大弁を兼ね、従四位上に昇叙した。参議は兼帯したままである。この間、『令義解』の編纂にも携っている。なお、『令義解』は仁明(にんみょう)天皇の代となった天長十年(八三三)に撰集された。
承和元年(八三四)に三十九歳で左大弁に遷り、正四位下を授けられたが、この年、大きな転機が訪れた。結果的には「最後の遣唐使」となった承和の遣唐使の大使に拝されたのである。薨伝にもあるように、父子二代続けて大使に拝されたのは、これが最初(で当然、最後)のことであった。承和四年(八三七)には四十二歳で大宰権帥も兼ねている。
二度の渡航失敗と小野篁との対立
この遣唐使は、承和三年(八三六)・承和四年と、二度にわたって渡航に失敗し、承和五年(八三八)の三度目の渡航の際には、それまでの渡航失敗で第一船が破損して損傷して漏水したため、副使の小野篁(おののたかむら)が乗船する予定であった第二船に乗り換えようとしたことによって篁と対立し、篁は「己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できない」と抗議し、渡航を拒否してしまうという事件が起こった。
なお、篁が官位剥奪の上で隠岐国に流罪という処分を受けた際に詠んだ和歌が、『百人一首』に採られた「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」と伝わる。ちなみに、知乗船事の伴有仁(とものありひと)ら四名も、乗船を拒否して処罰を受けている。
結局、常嗣は篁を残して六月に三度目の渡航に出航したが、この渡航は艱難を極めた。その有様は、同行した円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記』に詳細に記録されている。翌承和六年(八三九)、常嗣は長安で文宗(ぶんそう)に拝謁して無事に任務を果たした。若年時より称賛に値したという挙措動作が、大いに役立ったことであろう。
そして新たに新羅船九隻を雇い、八月に肥前国に帰国することができた。この際にも、帰国時の渡航ルートをめぐって、常嗣と判官の長岑高名(ながみねのたかな)が対立したが、常嗣は高名の主張に従った。なお、円仁は唐に不法残留を続け、さらなる艱難を味わうこととなった。
常嗣はこの功績により、九月に従三位を授けられたものの、翌年四月、薨去してしまった。四十五歳。遣唐大使としての心身の疲労が死期を早めたことは、間違いなかろう。常嗣の判断能力や統率力の欠如を指摘するのは簡単であるが、唐の衰亡が明らかとなっていたこの時期、藤原北家の議政官として、苦難をおして唐に渡らなければならなかった常嗣の辛苦もまた、想像に余りあるところである。

なお、常嗣は藤原緒嗣女(おつぐのむすめ)との間に興邦(おきくに)と文弘(ふみひろ)、伴真臣(まおみ)女との間に葛覧(かどみ)を儲けているが、興邦が従四位下内蔵権頭に任じられた以外は、文弘と葛覧は官位も伝わっていない。常嗣が四十五歳で死去してしまったことによるものであろうか。
それは常嗣の弟で十四歳年少の氏宗(うじむね)が、『貞観格』や『貞観式』の撰上、貞観永宝の鋳造など、その能力を遺憾なく発揮し、右大臣にまで上ったこととは、対照的である。
ただ、常嗣が円仁の天台山留学のために奔走したことは『入唐求法巡礼行記』に見えており、円仁には随分と親切にしていたことが窺える。やがて九年半に及ぶ唐滞在を終えて、承和十四年(八四七)に帰国した円仁が天台宗を復興し、その後の日本仏教に大きな礎を築いたことを思うとき、常嗣にももう少し、評価を与えてあげてもよろしかろうと思うのである。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖
(12)最後まで名声を求めなかった名門・紀氏の珍しい官人
(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由
(14)没落する名族の中で僅かな出世を遂げた安倍氏の官人
(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人
(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫
(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王
(18)官歴を消された藤原北家の官人・真夏が遺したもの
(19)藤原式家の世嗣に見る官僚人生をまっとうする尊さ
(20)後世の伝説へ繋がる六国史に書かれた空海の最期
(21)天皇から民衆にまで愛された皇親氏族・甘南備高直
(22)長寿の官人・池田春野が一度だけ脚光を浴びた理由〈前回〉
(23)最後の遣唐使の大使を務めた藤原常嗣の隠れた功績 ←最新回
(24)ひとりの天皇に尽くした南家最後の大臣・藤原三守〈次回〉